―― 碩 学 ――










          ( * 全て、捲簾大将の一人称で、独り語りです。)


その日も、拘束時間が過ぎると俺は天蓬の部屋に入り込んで、何という事も無しに煙草を吹かしていた。
天蓬の方でも、俺が何か用があって来たのではないと分かっているものだから、余り構ってはくれない。
入って来たときに読んでいた本から、そのまま目も離さずに、読書を続けていた。

何だかなあ ・・・。
まあ、暇潰しに人の部屋に出入りしている俺にも問題があるんだろうけれど、これでは例のふざけた蛙灰皿でも借りに来たみたいじゃないか?
第一、こいつにも同じような理由で敖潤の部屋に出入りする癖があるが、その場合は敖潤から大事にされて、居る間中、何くれと世話を受け続けているのだから、世の中不公平極まりない。

もうちょっと愛想でもしろ、と胸の内に毒吐いてみるが、結局は俺に来る理由が無いのだから、何も言える立場ではなかった。
いやいや ・・・ その同じ条件でも、敖潤なら飲み物を出したり、話し掛けたりして一生懸命構ってやる。
そう思うと、何となく妬けて、僻み根性が頭を擡げてきた。

「 なあ、天蓬 ・・・。」
俺が呼び掛けると、あいつは面倒臭そうに本から目を離した。
元々床にへたり込み、書架に凭れての読書だったから、本から目を離して俺を見上げると、まるで俺に追い詰められた挙句、書架に阻まれて難儀しているように見える。

それでも一応、しっかりした声で返事だけはした。
「 何でしょう? 捲簾。」
「 お前、今度敖潤に専属の副官が付くという話を聞いてるか?」
俺は言ってやった。
多分天蓬が聞いたら嫌がるだろうことは分かっている。
それでもまぁ、何てぇか、ちょっとした復讐のつもりで、態とに持ち出してやった話題だ。

「 そういう噂が有るようですね。 また何処ぞの止ん事無き方の押し付けで、上層を通して誰かを寄越そうとしていると。」
一応知ってはいるらしい天蓬に、俺は更に意地の悪いことを訊いてみた。
「 お前が、そうなりたかったのじゃないのか?」
あいつは簡単に頷いた。
「 その通りです。」

へえ? やけに簡単に認めちまうんだ、こいつ。
「 ここに連れて来られた当初、僕はその ・・・ 半泣きで傍に置いて欲しいと閣下にお願いしましたが、断られました。」
そうなのか? 敖潤にしては、らしくもない事をする。
「 何でだよ?」

俺が尋ねると天蓬は、未だに残念だと言わんばかりに顔を顰めてみせた。
「 僕には独立して、西方軍の指揮官で居ろと。
確かに副官と言うと、上官の世話係のようなイメージが有りますからね。」
「 でも、出世には近い立場だ。」
「 ええ。 ですから、敖潤閣下はその後も副官を採用されなかったんです。
僕との間に誰も挟まないようにして下さっていたのでしょう。」

おかしな話だった。
それなのに何故、今頃になって?
「 部外者には、空いているように見えるからですよ。」
天蓬が俺の不審気な顔に答えて付け加えた。
「 体裁も良く、安全そうで、中々のポジションが一つ空席になっていると感じられるんです。
貴方がここに来る以前にも、何人かの士官がその仕事をしにやって来ました。」

成る程、そういうことか。 それはきっと、この間の楊白のように、高級神の次男・三男坊に身分を与えるために差し向けられたのだろう、と俺は思った。
「 楊白みたいな ・・・?」
「 ええ。 そうです。」

「 で ・・・?」
「 でって?」
敖潤は、今もやはり副官を傍に置かずに、直接当番制の世話係に身の周りを少し手伝わせているだけだ。
通常敖潤に付く副官ともなれば、自身では実際の世話をすることはなく、そういう人員に采配を振ることになる。
だからこそ、あのどうしようもなく不器用な天蓬にさえ、その職責が相応しいと見做されたりするのだ。

しかし実際には、敖潤は天蓬が独立して活躍することを望み、自身も代わりの副官を持たずに来た。
少なくとも、俺が来てからはずっとそうだ。
「 皆何処に行った?」
天蓬はゆっくりと首を振ると、少々寂しそうに溜息を吐いた。
「 分かりません。 自然に辞めて行ってしまうんです。 居付いた者は居ません。」

自分がその地位に就きたかったと言っておいて、その地位に就いた奴が次々に辞めてしまうのに良い顔をしないとは不可解なと思ったが、あいつには常に敖潤が上手くいっていることが第一義だったようだ。
「 そのことで、閣下が気難しい暴君らしいという噂は立つし、僕も気にはなっているのですが ・・・。」

まあ、あの敖潤に限って、例え副官が付いて、天蓬よりもずっと長くそいつと時間を過ごすことになったとしても、それでこいつに対する態度が変わるとは、俺にも思えなかった。
だから天蓬も、自分がどうされるとかに関係無く、ただ敖潤に妙な噂が立つ事を嫌っていたのだろう。

俺との会話が長引いた天蓬は、とうとう諦めたらしく、本を閉じて立ち上がった。
長くそうしていたらしく、些かふらつき気味でいるあいつの手を引っ張ってソファに座らせると、眼鏡を外して目の周りを指で押している。
普段でも整った容貌だとは思うが、眼鏡を外している時のあいつは妖精もどきだ。

それでも、当人には余り気持ちの良い時間ではないらしく、首を仰け反らせて低く唸っていた。
気の毒になって、コーヒーを淹れてやろうかと声を掛けると、その眼鏡の無い顔から手を離して、にこっと嬉しそうにする。

コーヒーを立てている間、あいつは俺に続きを話してくれた。
俺から言い出したとはいえ、結局は上層とも直接話せ、敖潤からも明け透けに事情を聞いているあいつの方が、俺なんかより遥かに詳しかったようだ。
天蓬が言うには、その噂の所為で、暫らくそんな話が無かったのだが、今度はこれまで以上の名門の次男だか三男だかが、分家して独立するのに軍籍を持つことを選んだらしい。

ふーん?
立てたコーヒーを渡しながら、「 お前も気苦労が有るな。」
そう言ってやると、天蓬は受け取ったコーヒーに口を着けてから、視線だけを上げてこちらを見た。
「 今度は居着かせて見せます。」
何やら自分で決心している様子だった。

どうやら一連の辞職の原因を、天蓬は、きっと副官という立場が他の士官から孤立しやすくて寂しいからだろうと分析したようだ。
まさかな。 軍隊にいて、寂しいからとかどうとかいう問題じゃないだろうよ。
しかし、天蓬はすっかりその気になっていて、俺にまで、暫らく付き合いが減るかも知れないと、許可を取ろうとした。

天蓬にしてみれば、敖潤のところは極端に人の出入りが少ないので、せめて出入りを繰り返す自分が友人になってやって、他の士官との架け橋になってやれば、長続きするのではと考えたようだ。
正しいことを言っているようでいて、何かがちぐはぐだと俺は思った。

大体が、誰もが皆、お前のように相手との間に信頼関係を築いて親しくなろうとする訳ではない。
最悪の場合、友人関係なんぞ、力関係の上にも成り立つ。
「 特に、そういう地位の得方をする奴はな。」 俺はそう指摘した。
「 んなこと言ってると、お前が放り出されるぞ。」

あいつは、くすりと笑い声を立てた。
「 僕自身もそういう地位の得方をして、此処に来たんです。」
いや、それは違うと思う。
お前の場合、計られて引き摺り落とされたのを、その実力を認めた観音と竜王が元に戻しただけであって、その後の活躍と指揮能力で、今やそんな経緯だったことすら覚えている者は居ない。

ただ、その推薦者が最強の我侭コンビで、やるに事欠いて、西方軍の再編成までして、天蓬に居場所を与えたってところがおかしいのだが、それも今となっては時効だろう。
その後の最強西方軍の構築で、天蓬が実力以外のもので君臨しているなどと考えるのは、本人くらいのものになってしまっていた。

だが、天蓬自身がそう考えているのなら、今度来る奴は本当に優遇されそうだった。
問題は、そいつが天蓬に敵意を剥き出しにしやしないか ・・・ の方だよな?
誇りの高い名門の子息なら、自身がその集団のトップに立ちたがらないだろうか?

そして、それ以外にも何となく違和感を感じたのだが、それははっきりしなかった。
一応、あいつの計画が上手く行けばいいな、とは思ったし、必要有らば手を貸してやろうとも考えてはいた。





翌日になって、その新しい副官 ― 梁緒(りょうちょ) ― が、既に着任したことを知った。
そうか、着任直前になって話題に上っていたんだな、と俺は納得したが、やって来たその男を見た時には驚いた。
軍人と呼ぶには体格の悪い男で、上背だけがあった。

要するに天蓬と同じような身体つきなのだが、以前の楊白のようなひ弱さは感じさせない。
何でも御大層なくらいに学問を修めた人物だそうで、その自信がそうさせるのか、目付きは鋭く、態度もぞんざいだった。
有名な私塾の出身であり、修めた学問にもいちいち箔が付いているというタイプだ。

天蓬は自分の決意通り、早速初日からそいつを昼食に誘ったようだったが、何故か直ぐに俺のところに舞い戻って来て、「 振られちゃいました。」 と報告した。
名門の子息なんで気難しい奴だったのだろうと思った俺は、気にするなと慰めてやった。

「 いえ、良いんです。 寂しがっているという風でもなかったし、自分で他の士官たちと付き合いたいと言っていましたから、社交的な人のようです。」
天蓬は気にしている様子も無く、そう言った。
「 今度こそ、居付いてくれるような気がします。」
成る程ね。 そういう意味か。

天蓬は安心して胸を撫で下ろしていたが、それにしてもあいつを振る奴など、初めて見たと俺は思った。
「 兎も角、空いているんなら俺と食おうぜ。」
誘ってやると、あいつは 「 いいですね。」 なんて暢気な答えを寄越した。
そんな具合で、その日も天蓬は俺と昼食を食って、機嫌良くしていた。

その後もあいつは時々、梁緒を誘ったり、声を掛けたりしていたようだが、次第に、ただ断られるだけでなく、その都度、何やら酷い言われ方をされているという噂が立ち始めた。
梁緒は、天蓬以外の士官たちとも摩擦を起こしていたようで、お陰で西方軍全体が何となくギクシャクと軋んでいた。

誰が話し掛けても馬鹿にしたような返事を返すという評判だったが、自分の頭が切れるなら切れるで、天蓬まで蔑むとは、どういう了見だろうと不思議に思っていた。
しかも、噂ではそいつは天蓬に対して一番邪険で、多少は口を利く奴には盛んに天蓬の悪口を言い、自分が嫌った奴には、「 だからお前らは、あの天蓬の部下で居られるという訳だ。」 と嘲ってみせるという。

梁緒はそこまでしてのける学問自慢だけあって、普段から何かに付け、クソ難しい哲学の名前や学派の名前を引き合いに出しているらしい。
ただし、誰に対しても、専ら付き合えぬ理由としてその名を出していたようで、結局は誰とも内容を論じることは無かった。
少なくとも、本人は孤高の天才を気取っていたようだ。

俺はというと、断るにも値しない体力馬鹿だとでも思われていたのだろう。
ひたすら避けられているようで、目も合わせて来ず、こちらから近付こうとしても、毎回そそくさと離れていってしまう。
まるで最初から俺を相手にはしないと決めて掛かっているようで、取り付く島もなかった。

ま、俺に関しては、それならそうでも良いのだが、天蓬には、その後も陰で何かを仕掛け続けている様子なのが気になっていた。
時々あいつが脅されているようだ、などと俺にまで進言してくる奴がいる。

しかし、天蓬に真偽を質してみても、「 まさかね。」 と笑うばかりで取り合わない。
何かがおかしい ・・・ そう思いながらも何も出来ずにいるうち、梁緒の着任から早くも一週間が過ぎていた。



そしてまた一つ、俺に密告が入り、梁緒が毎日食堂の特別席を利用していると知った。
幾ら敖潤の副官だといってもそれはおかしいだろうと思ったが、最近では天蓬がまるで当てにならない。
仕方無く、俺は事情を話さずに、ただ天蓬に今日は食堂で食おうとだけ告げて、昼食に誘い出した。

しょっちゅう逃げ回られている俺が、何となく標的になっているらしい天蓬を連れて現れたらどうなるかを確かめてみたかった。
相手が天蓬と一緒の俺を見て、矢張り避けたとしても、今度こそは天蓬に、それをどう思うかを訊いてみようと思っていた。

食堂への道すがら、俺はこれから行く先に梁緒が居ることを教えないままに、その後どうなったのかだけを天蓬に訊いてみた。
「 完全に嫌われたので、もう声を掛けるのは止します。」
天蓬はそう言って、ちょっと残念そうにした。

でもまあ、本人が存外満足そうにして暮らしているので、それでも良いと思うんです。
あいつがそんな風に言うのを聞きながら、俺たちは食堂に入って行った。

「 先に座ってろ。 俺が持って行ってやるから。」
俺がそう言うと、天蓬は大人しくテーブルに向かって歩いて行った。
あいつは何時も一般の士官用の席に着く事にしている。

俺に合わせているとか言っているが、実は何かの都合で一人で食う羽目になっても結局そちらで食うから、人の居るところが好きなのだろう。
古参の奴に訊いてみたら、案の定、俺の着任以前もやはりそうしていたようだ。
今ほど喋りはしなかったそうだが、人の側に居られるのがお好きなようです、と教えられた。

だから、本来、敖潤とあいつ用に用意された窓辺りの上席は空席でなければならないのだが、そちらを見ると、てっきり人影があった。
しかも、敖潤はそこには居ない。
梁緒が敖潤の付き合いでというのでなく、独りでそこを利用していた。
たしか、中佐だと聞いていたのだが ・・・。

噂通りの暴挙にうんざりしながら、昼食のトレイを持ってあいつのところに戻った。
「 あいつだろう?」 俺は窓辺りを見ながら天蓬に確かめた。
「 ええ、あの人です。」
「 中佐じゃなかったのか?」
「 あそこが空いていたからでしょう。 文句は言えません。 僕も同じことをしています。」

呆れたね。 同じことって、お前なあ ・・・。
天蓬は、自分がここに居るのも空いているからだ、と言いたいらしかった。
「 で? お前、この間から、振られたの嫌われたのと言っていたが、それってどういう ・・・?」
「 これですよ。」
天蓬は持ち込んでいた本を持ち上げて見せた。
「 最初に会いに行ったときも、こういうのを持っていたのですが、それを見咎めた梁緒に、水準が低いから側に寄るなと叱られました。」

そりゃまぁ、そうなのだろう。
天蓬はじっくり長く本が読めないと分かっている中途半端な休憩時間には、漫画を持っていることが多い。
今日持っていたのも漫画だったから、その日も同じように漫画を抱えていたに違いなかった。

「 何でそんなもの抱えて行くんだ。 初対面の人間の前に?」
「 何でと言われても ・・・ それが読み掛けだったんです。」 天蓬は照れ笑いした。
「 しかし、どうにもそのことで、最初に軽蔑されてしまったようで ・・・。」
それにしても、下位である筈の中佐に叱られたと聞かされて、流石に俺も心配になって来始めた。

「 大丈夫なのか?」
「 ええ。」 天蓬はきっぱりと言い切った。
「 その時の会話の内容など、誰にも聞かせる気はありませんし、当人も度胸満点みたいだし、今度こそ大丈夫でしょう。」

何を言っているのやら。
俺が心配しているのは天蓬に決まっているのだが、どうやらこいつの頭には先週から、あの男を居付かせる事以外に無いみたいだ。
「 ボケてるんじゃないぞ。 お前は ・・・。」
俺が小言を言い掛けた時、食堂のがやがやとしたざわめきが急に消えた。

不思議に思って振り向いてみると、入り口に敖潤が立っている。
敖潤は真っ直ぐに梁緒の方に向かって行ったから、誰かが敖潤の方にも告げ口したらしかった。
低く唸るように叱り付ける敖潤の声が、途切れ途切れにこちらにも聞こえて来た。

「 お前がこれまでどんな生活をして来たかは知らん。 しかし、ここでは階級に従えと言っている。」
そんな風に奴を諭していたようだった。
しかも、梁緒を渋々立たせた敖潤は、今度はこちらにやって来やがった。

「 天蓬、お前もだ。」
天蓬の傍までやって来た敖潤は、何時に無く強い語調で怒鳴り付けた。
あいつは例によって、逆らうことが出来ず、ただ目を伏せるばかりだ。
「 可哀想なことを ・・・。」 仕方無く俺が割って入った。
「 こいつは食が細い。 そんな風に言ったらどうなるか、あんただって分かっているだろうに。」

「 分かっていないのは貴様だ。」 敖潤がむっとした顔付きで俺を睨み付けた。
「 私がどんな報告を受けたと思っているんだ。 天蓬は、来たばかりの中佐にしょっちゅう怒鳴りつけられているというじゃないか。」
「 え?」
俺は驚いてあいつを見た。

「 いや ・・・ 幾ら何でもそんなことは ・・・ 有り得ません。 何かの間違いです。」
あいつは誤魔化そうとしたが、敖潤という男はそこの所は心得ている。
「 私の顔を見て、もう一度同じことを言ってみろ、天蓬。」
と来たもんだ。

天蓬は敖潤を相手に誤魔化すの嘘を吐くのという事はしない。
といって、認める訳にもゆかなかったようで、ただ、目を合わせられないまま、自分の分のトレイを持って立ち上がった。
「 申し訳ありませんでした。 席を移します。」

敖潤はそのまま俺の近くに立って、様子を見守っていた。
やがて、一般の士官席に移れと命じられた梁緒が、そんなことが出来るかとばかりに、食堂から出て行くのを見定めると、溜息を吐きながら俺の隣の席に腰を下ろした。
「 規則違反だぞ。」 俺は此処ぞとばかりに言ってやった。

「 煩い。 冗談も時と場合を考えろ。」
今自分で取り沙汰したばかりの規則を破りながら、この最高責任者は偉そうに俺を叱り付けやがった。
「 それと ・・・ 貴様もあちらへ行ってやれ。 あれは寂しいのが苦手だ。」
「 俺まで規則を破るのか?」

「 私が許可する。 貴様を招く。」
結局、天蓬にはとことん甘いらしい。
「 あんたも行ってやらなくていいのか? 悄気てるぞ?」
「 私は自室で食事を済ませたんだが ・・・ そうだな。 言い過ぎたろうな。
貴様は先に隣に座ってやれ。 私はコーヒーを貰って後から行くから。」

取敢えず、何時もの敖潤に戻ってはいるようだった。
ぞんざいで、旧式で、直ぐに人を怒鳴り付け ・・・ そして、天蓬に対しては全くの弱気な、何時もの最上官閣下だ。
近くに居た誰かが、「 コーヒーは私がお持ちします。」 と立ち上がってくれたので、敖潤は俺に合図して自分と来るように促した。



俺たちが行って、横と向かいに腰を下ろすと、天蓬は幾らかほっとしたという表情を見せた。
「 天蓬。 今度から捲簾と食堂を利用する時には、お前の権限で捲簾をこちらに招け。」
席に着いた敖潤が真っ先にそう命じた。

「 何故でしょう? 必要無いと思いますが。」
「 必要無い ・・・? どうして。」
「 僕にはここである必要が有りません。 皆と同じところが良いのですが?」
「 そうだな。」
敖潤が余りにも簡単に頷くのを見て、俺がぎょっとしたくらいだった。

「 だが、したいように振舞うのは、格下の新入りに詰られたら怒鳴り返せるようになってからにしろ。」
やっぱりなぁ。 簡単には許さないか。
「 閣下 ・・・。」 天蓬が恐る恐る言い出した。
「 そのことは、僕の不手際です。 僕が彼の好みに合わなかったのに、何度か声を掛けたからです。」

「 好みに合わないからといって、上官を怒鳴り付けて良い訳が無かろうに。」
天蓬は仕方無さそうに、これまでの経緯を敖潤と俺に打ち明けた。
梁緒は学問が本領で、そちらで身を立てたいので、読むものも興味を惹かれるものも違う天蓬とは、付き合いたくないと言ったのだが、その時にあいつの持っていた漫画本を指差し、こんなものを持つ奴に話し掛けられるとは情けない ・・・ そう声高に叫んだらしい。

西方軍の中では、誰もが天蓬をそう見てはいなかったので、誰かが聞き咎め、敖潤の耳に入れたのだろう。
「 そう言えば、矢鱈小難しい書物の名前などを羅列する奴だったな。」
敖潤も思い出してそう言った。
「 それで、どの程度の実力なんだ?」
俺が口を挟んだ。

「 どの程度って ・・・。」
「 お前の目から見て、どの程度学問が進んでいるんだ?」
「 さあ ・・・?」 天蓬はぽかんとして視線を宙に泳がせた。
「 分かりません。 僕には無理です。」
「 お前に無理って ・・・。」 俺は絶句した。

凡そ古今東西の知識を修め ・・・ いや、古今東西の書物を暇潰しに片っ端から読破し、読めば読んだだけ覚えていられるお前が、無理ってどういう ・・・。
「 名前しか出て来ないので、どのような解釈をしているのか、判別出来ません。 自身の解釈と比較し、論じたいと思ったとしても、兎に角名前しか出さないんです。」

「 名前って?」
「 学者の名。 著述の名。 派閥の名。 ・・・ あと、精々その名前を冠した、何々的考察に拠ると ・・・ としか言わないのですが、その部分に何々的である要素を見付けられず、真意は図りかねます。 でもまあ ・・・。」
あいつは、ここで表情を和らげてにっこりした。
「 ウィトゲンシュタインを完全に制覇しているというのは、凄いことだと思いました。」

「 それはその ・・・ どういう風に凄いんだ?」
俺は尋ねた。
「 僕にはウィトゲンシュタインの思考は追えません。 論旨が分からないんです。
特に数式の部分は、どう解釈するかというより、何を意図しての数式なのかすら分かりません。 これはまあ、ジャック・ラカンやポール・ヴィリリオにも同じことが言えますが。」

「 奴は分かるのか?」
それまで、俺との遣り取りを、自分もその話で良いといった顔付きで黙って聞いていた敖潤が、質問を投げ掛けた。
「 らしいです。 僕の抱えていた漫画を見て、そう言って怒っていましたから。」
「 いや、お前に聞いている。 奴は分かっていそうか?」
「 ですから ・・・ 判断不能です。 名前しか聞いていません。」

敖潤と話し出した天蓬の受け答えを聞いているうちに、俺は着任間も無い頃に、天蓬と交わした会話を思い出した。
取っ散らかした本の中で転寝していた天蓬を起こし、本を脇に退けていた俺は、気になって天蓬に訊いてみたことがあった。
「 こんなものばかり読んでいたら、俺なんかが馬鹿に見えて仕方無いだろう?」

俺がそう訊いたのは、それらが難解な哲学書ばかりだったからだ。
「 同じですよ。 捲簾には捲簾の哲学があって、それに従って生きている。
その人たちはそれを多少、汎用的にし、体系化しただけです。」
「 同じって事は無いだろうよ。」
俺は笑ったが、天蓬は重ねて同じだと言った。

天蓬は哲学も論理学もその他もみな、人が生きる上でのツールだと捉えていた。 一定の用語を決め、その記号的意味合いを介し、概念を伝える道具として提供されるべきだと。
従って、効率良くその概念をなぞろうとするには、哲学用語は必要であり、それを他者に伝えるにもまた有用であるが、もし、相手がそれを習いたがっていない場合には、何の意味も為さない。

そんな風に考える天蓬にとって、用語の通じない者に無理矢理哲学だの論理学だのを語るのは、単なる嫌味にしか思えなかったようだ。
また、通じないことで相手を見下すこともしない。
そうなんだよな。 こんな本に囲まれて生きていながら、その話を何もして来ないからといって、気にした俺の方が間違ってるって訳だ。

だから、自分はそんな話をしないのであって、貴方を低く見ているから、話さないのではありませんよ。
天蓬はそんな風に解説し、最後に、
「 要するに捲簾。 万有引力という言葉を知っていようがいまいが、階段を踏み外せば落っこちる、とそういうことです。」
と付け加えて屈託無く笑った。

こいつはそういう奴だった。
同じ理由で、小さな子供相手にも丁寧な言葉遣いで対等に話す癖がある。
経験の違いで、多少の指導をすることはあっても、基本的に相手の考えを対等に聞いてやろうとする。
そんな態度は、週に二度打っている士官候補生への座学講義でも好評で、通常疎まれる筈の戦史講座に、驚くほどの受講生を抱え込んでいた。

俺がそんなことを思い出していると、大して聞いていなかった二人の会話の中から、敖潤の 『 座学 』 という言葉が俺の耳に飛び込んで来た。
おや?と思って聞き入ると
「 ・・・ 梁緒は、お前の座学講義を譲り受けたいと言っているんだ。」
俺ははっとした。
講義を譲り受けたいって、来て早々に何を言い出しやがるんだ。

俺は当然に抗議した。
「 いや、それは拙いだろう。 あんなクソ退屈な講義、万有引力という言葉を知っていようがいまいが、階段を踏み外せば落っこちるんだ、なんて平気で抜かす天蓬が打つから、人が来るんだろうに!」
敖潤は、いきなり話に割って入って訳の分からないことを言い出した俺に、顔を顰めて見せた。

「 貴様の言い条は相変わらず支離滅裂だな。 何を言い出す。」
いやそりゃ ・・・。
確かに口を衝いて出た言葉は、それまでの俺の回想の続きにはなっちまっていたろうが ・・・ しかし ・・・。
何だか、それが非常に大事なことに思えたんだ、俺には。

「 大将の仰る通りです。」
その時、後ろから声が掛かった。
コーヒーを持って来てくれた士官とその連れらしいのが、何時の間にか後ろに立っていた。
「 元帥の講義だから聞く気になるのでしょう。 こういう職業を選ぶ者は本来、座学には向きません。」

一人が気を利かせて三つ持って来たコーヒーを俺たちに配ってくれた。
その後ろにいた一人が身体を少し前に進めて、何か言いたそうにした。
「 差し出がましいとは思いますが、どうしても ・・・。」
「 構わんぞ。」
敖潤は簡単に許可を与えた。

「 元帥は御自分が話し掛けて怒らせたと仰っているようですが、違います。
梁緒と偶々廊下で出会われる度、向こうから因縁を付けて来るのです。」
天蓬がはっと顔を上げた。
「 私もそういう場面を目撃していますし、この数日他にも ・・・。」
「 黙りなさい。 一体何を言い出すんです、こんな所で。」

あいつにしては、何時に無く強い調子の部下への叱責だったが、敖潤が 「 お前こそ黙れ。」 と一喝して遮った。
敖潤は手を伸ばすと、あいつの脇に置かれていた漫画を摘まみ上げた。
「 表紙が破けているし、酷い傷みようだな。 他のものは兎も角、書物は大事にするお前が ・・・。 取り上げられて、投げ付けられたんだろう。」

「 書物といっても、漫画ですので。」
天蓬が言い訳しようとした。
「 何時から、お前に漫画と学術書の区別が付くようになったんだって?
難解な学術書も娯楽として読みこなせるお前に、漫画が一段落ちだなどという区別が有るものか。」

大正解だった。 天蓬に漫画と学術書の区別は着かない。
あいつの本棚には、漫画も学術書も専門書もごちゃごちゃになって収まっており、漫画は隅に追い遣っておこうなどという配慮は一切無かった。

だから、初めてそれを見た俺なんかは、あいつこそが似非天才で、実は漫画しか読めない馬鹿なのかと疑ったほどだった。
尤も、そういう配慮をする必要すら無いほど頭が良いと分かるのに、大した時間は掛からなかったが。

全く、この上司はむっつりしているようでいて、天蓬をよくよく理解し切っていた。
あいつは、普段から敖潤に対して嘘を吐きたがらないとは思っていたが、嘘を吐くことが不可能なのだろう、きっと。

天蓬の方はと言えば、これまで平気でしてきた規則違反を急に咎められ、皆の前で黙れとまで命じられて、流石に顔色を失っていた。
敖潤はむっとしたまま、天蓬を眺めている。

「 今回のことでは、お前は私に次々に嘘を吐いている。 普段、私に誠実に接してくれていたお前が何故 ・・・?」
しかし、言い掛けた文句を首を振って意識的に引っ込めた。
「 いや良い。 あとで、ゆっくり説明して貰うことにする。 今はそれを片付けてしまえ。」

敖潤に促されて、天蓬は無理矢理に食事を続けた。
元々食の細いあいつには、この状況での食事は到底無理で、結局三分の一ほど食って、後はコーヒーを飲み干してやっと赦された。
敖潤は自分のコーヒーを飲みながらそれを見守り、あいつがカップを空にしたところで立ち上がった。
「 後で、私のところに来い。」



敖潤が行ってしまった後、へとへとになってテーブルに突っ伏してしまった天蓬を、俺は自分の飯を食いながら呆れて眺めた。
「 全く言い返せないんだな。 俺に対する態度と偉い違いだ。」
「 捲簾 ・・・。」 珍しく真摯な態度で俺に向き直ると、あいつは俺の名を呼んだ。
「 僕はどうやら、今回失敗続きだったようです。」

あいつは先日俺に、自分から誘い掛けてみると話していたので、今日偶然に出遭って、いきなり襲われたみたいな格好になった時、あの話の延長線上にしたら、揉み消せると思ったのだと打ち明けた。
ところが、見られていないようでいて、何重にも目撃者がいたという結末だった。

しかも、嫌われてはいないまでも、部下から気軽に声を掛けられるタイプではなかった筈の敖潤が、今回に限って、これまた何重にも天蓬についての報告を受け取っている。
最後の一度は、目の前で遣られてしまった。

俺に言わせれば、どう考えても、それは天蓬自身が部下から慕われているというだけのことで、上級神の名を背負った新任の中佐の横槍から、唯一天蓬を守り抜けそうな敖潤に、皆が期待しているとしか思えないのだが、あいつは混乱していて、それに思いが及ばないでいた。

きっと、自分で言っていたように、今回こそは敖潤に副官を持たせたかったのだろう。
だから、周囲の者には明らかに敵の出現と映った存在にまで、自分が妥協することで平穏を保とうとしたのだ。

「 兎に角出頭して来ます。」
立ち上がった天蓬が、何時もよりか細く見えてぞっとした。
「 一緒に行ってやろうか? 俺なら何と怒鳴られようとめげたりしないぞ。」
天蓬はにこっと笑って見せた。
「 独りで大丈夫です。 もしまた営倉行きになったら、代わりに明日届く筈の漫画雑誌を受け取っておいて下さい。」





緊張感が有るんだか無いんだか分からない台詞を残して出頭して行った天蓬だったが、その日の夕方まで敖潤の部屋から出て来ず、俺も散々に心配した。
苛々しながら敖潤の執務室のある廊下まで出て行って待つ内、気付けば、他の部下たちも執務室を窺うようにして、廊下のあちこちに数人ずつ屯している。

「 何だ、お前らは。」
俺が煙草を咥えながら問い掛けると、誰かがすうっと火を差し出してくれた。
首を傾けて火を点け、顔を見上げるとそいつは永繕だった。
「 お前まで ・・・。」

「 もう、拘束時間を過ぎました。 だから、ここに人が集まって来ているんです。」
時計を見て成る程と思ったが、何にしても過保護な部下達もあったものだ。
それとも、部下が上官を心配する場合には、過保護とは言わないだろうか?

俺が下らない事を考えていると、部屋の扉がガチャリと音を立て、その場に居た者が一斉にそちらを見た。
だが、出て来たのは天蓬ではなく、敖潤の方だった。
「 お前たち一体何を ・・・。」
敖潤は驚いた様子だったが、それでも側にいた者に用を言い付けた。

「 まあ、丁度良い。 食堂まで行って、氷を貰って来てくれないか?」
言い付けられて、その意味するところを察した男が大慌てで走り去ったのを見て、俺は許可を受けずに強引に敖潤の部屋に踏み込んだ。
後から俺を追って入って来た敖潤が、俺を追い出さぬまま、何も言わずにドアを閉めた。

「 また倒れさせたろう。 どういうことだよ?」
「 何もしてはいない。 事情を聞いていただけだ。 その内、天蓬が倒れてしまったので、服を脱がせたら、腕に掴まれた指の痕が付いていた。」
「 腕に ・・・?」
「 あれの弱点だな、あの場所は。」
敖潤はそう言って溜息を吐く。

「 きっと、それ以前から、既に体調を崩していたのを隠していたようだ。」
「 今度こそ、副官を居付かせるとか言って、張り切っていたからな。」
「 間の悪い奴だ。 今度こそ、そんなことは有り得なかったのに、何も知らないで ・・・。」
「 うん?」 俺は聞き返した。
何だそれ、今度こそ有り得ないって。

人付き合いの悪いこの最高責任者がぼそぼそと話した内容に拠ると、今度の副官押し付けは、最初から天蓬のポジションを狙ったものだったらしい。
「 確かに私の副官は、貴様のような腕力馬鹿には向かないにしても、何も態々天蓬と同じ特性を持つ必要など無かったんだ。」
有り難い喩えをどうも。 腕力馬鹿で悪かったな!

ところが、今回送り込まれて来たのは、学問自慢で完全に天蓬と守備範囲が同じ奴だった。
実際の天蓬は剣術にも長けているが、それは判断力の速さの副産物だと見做されており、軍師が実態だと思われている。
近くにいて、毎日あいつを見ている西方軍の者にとっては、そうとばかりも言い切れないのだが、少なくとも部外者にはそう見える。

それ故、敖潤が頭脳戦重視の戦略派だと受け取った周辺が、頭でっかちの天才肌を寄越して、年齢的に不相応な元帥位を持っている天蓬の地位を奪おうとしたらしい。
敖潤の側に天才肌の有名私塾を出た若者を送り付ければ、優遇されるだろうと。

彼らのような上級神が欲しがっているのは、役に立てるかどうかに関係無く、体裁の良い、安全そうな地位だったから、傍目にのんびりして見える天蓬は標的になり易かった。
「 実は、私とあれとは、剣術試合を通じて知り合ったのだがな。」
敖潤が思い出して懐かしむようにそう言った。

つまり、天才肌の嫌味野郎を寄越されても、到底この上官の意に沿うはずがないのだ。
「 しかも、その学問自慢の実力たるや、先刻食堂で天蓬が指摘した通りだし。」
いや、天蓬には何も指摘出来てはいなかったと思ったが ・・・?

あいつには、一般の水準の方が分かっちゃいないから、常に何も指摘したりは出来ない。
妥当な線での教養もあり、忘れたり覚え違えたり、覚えられなかった結果、範疇の名称だけを並べ立てて虚勢を張る者もいるということを、ぎりぎり理解出来ており、天蓬の返す訳の分からん反応を一般的な言葉に翻訳してやれるのが、敖潤その人だったのだが、本人には余りその認識が無いようだった。

「 天蓬は隣なのか?」
俺が訊くと、敖潤は頷いた。
「 四時間近くも締め上げていたのか?」
「 そんな訳なかろうに。」
その時、外からノックの音がしたので、俺がドアを開けてやった。

先程の男が氷を持って、戸口に立っていた。
天蓬が意地を張って、必死で隠しているにも関わらず、敖潤に言い付かった士官が携えて来たのは、コップではなく、洗面器に入れられた氷だった。
御丁寧にも、新品のタオルの詰まった袋まで持って来てくれている。
俺はそいつを労って、届け物を受け取り、ドアを閉めた。

「 ものの見事に見透かされているな。」
敖潤も苦笑いするしかなかった。
「 まぁ、天蓬は上手く隠しているんだろうが、同時に注意深い観察の習慣を仕込んだのも、あいつ自身だからな。」



天蓬は奥の部屋の簡易ベットに寝かされていた。
頬に不自然な赤みはあったものの、飲まされた解熱剤の副作用で良く眠っている。
尤も、あの薬は然程強烈に眠気を催すものではないらしいので、つまりは天蓬自身が、ここでなら眠っても構わないと考えていたということなのだろう。
あいつにとっては、この部屋は、全ての警戒を解いてしまえる場所だった。

敖潤が氷水に浸したタオルを絞って額に乗せてやると、あいつは寝たまま、ほっとしたように溜息を漏らした。
もうだいぶ寝かせてあるが、熱が引かないので氷を取って来ようと部屋を出かかっていた、と奴は俺に説明した。

事の真相を問い質していたのは、最初の三十分程だったそうだ。
ただ、その三十分の追求が、普段から敖潤に誤魔化したりする習慣の無い天蓬には堪えたらしく、本人が行き詰まると同時に、身体が発熱の発作を起こしてしまったのだ。

俺は開け放った寝室から、隣へ視線を移し、続き部屋への出口を窺いながら、そこを控え室にしている筈の梁緒がどうしているのかを尋ねた。
遣いに出したという返事だった。
「 何処へだ。」
「 書状を持たせて、観音の所へ。」
敖潤はそう言った。

「 書状 ・・・?」
どうやら敖潤は、今回の梁緒の押し付けを観音に訴えたようだった。
元が天界の上級神絡みの押し付けなので、親父に訴えるより話が速いと思ったのだろう。
「 それを、梁緒本人に持たせたのか?」
「 観音も、どういう輩が天蓬を脅かしてくるか、一度御覧になられれば良かろうと思ってな。」

うわ、怖ろしいことを考えやがる。
あのババアは豪快に人をいびりそうだ。 それとも、ジジイだったっけか?
それを、本人に罪状を背負わせて遣いにやるとは、真面目な顔をして何をするんだ、この上官は。

敖潤は、渡された新品のタオルをもう二枚ばかり取り出して、氷水に浸し、毛布を捲くって、上着を脱がされ剥き出しになった天蓬の腕に宛がっていた。
腫れ上がって熱を帯びた腕に、一際赤く指で掴まれた痕が残っている。

「 新任の、それもトウシロウ同然の中佐にこんな事をされても、私の副官だというだけで、自分の胸の内に収めようとするなんて ・・・。」
溜息を吐きながら、ぶちぶち言っていやがる。
「 今度こそという思いが強かったのだろうよ。 あんたに悪い噂が立っているとも言っていた。」

「 私が副官をいびり出すという噂のことか? それなら、噂ではない。 事実だ。」
「 はあ ・・・?」
俺は聞き返した。
「 貴様も知っているだろうに。 私には事実上の副官はいる。 今迄から当番の采配も何も全部天蓬がしていた。」

まあそうかも知れない。
自分では雑巾も絞れない天蓬だが、人を動かすことは出来たし、自分の不器用さとは裏腹に敖潤のことでは気も利いた。
「 だったら何でちゃんと、お前が副官だと言ってやらなかった。」

「 独立させて、自信を持たせたかったからだ。 ここに来る前から、私はこれと暮らしていたんだぞ? その延長線上にしてしまっては、これが自信を着けるも何もあったものじゃないだろう?」
そういうことか。
結局、名乗らせていなかっただけで、実質天蓬が副官を務めていたという事だ。

そこへ、何だかんだと言って上層から、副官の押し売りがあったのでは、敖潤も定めし苛々したことだろう。
「 それで、毎回いびり出しては、お払い箱にしていたのか。」
敖潤は頷いた。

「 だが、今度は後ろ盾も大きく、最初から天蓬が標的のようだったので、心配していたんだ。 それなのに、これは今回こそ何とかしようなどと考えていた。」
「 確かに間が悪かったな。」

「 これで分かったろう? 私は別に天蓬を責めてはいない。 貴様も安心して自分のところに戻るが良い。」
敖潤は、もう一度タオルを絞りながら、俺にそう言った。
仕方無いよな? こんな展開では引き下がるより他に無さそうだった。
表に居る連中にも、大丈夫だと言ってやる必要が有るだろうし。

分かったよ、俺がそう言って部屋を出ようとすると、敖潤が呼び止めた。
「 そちらの部屋の私の机の上に本が乗っているだろう? 破けているし、汚くなっているし、同じのを買って来てやってくれないか?」
「 本って ・・・ この漫画本のことか?」

俺が確認すると、敖潤はそうだと答えた。
「 ペン立ての中に紙幣が入っているから、それを持ってゆけ。」
「 なぁ? 幾ら何でも、これを破かれた事まで、あんたの責任だとは思えないんだが?」

俺がそう言うと、敖潤は隣の部屋から、天蓬のタオルを絞る手を休めぬままに返事を寄越した。
「 知っている。 しかし、可哀想じゃないか。 何時も良い顔をして、楽し気にそういうのを読んでいるのに、そんなにされて。」
そりゃそうなのだろうが、ここは幼稚園じゃないだろ?

それでも、生真面目・仏頂面が売り物のこの上官は宣(のたも)うた。
「 元と同じではなくとも、事態が修正されておれば、天蓬だってほっとするだろう。」
はあ?そういうもんですか?





やれやれ。 俺はその日、同じ漫画を買い求めて届けてやり、有難くも敖潤から、破けた方を 「 貴様にやる。」 と戴いて来た。
頭の腐りそうな幼稚な漫画本を抱えて兵営の外に出ると、梁緒が荷物を纏めて西方軍から去ろうとしているところだった。
俺が声を掛けて、「 行くのか?」 と訊くと、そいつは肩を竦めて見せた。

「 あんたも気を付けた方が良い。 天蓬 ・・・ 天蓬元帥は観音の ・・・。」
そう言った時の声が震えており、顔色も蒼い。
「 ああ、知っている。」 俺はそう答えた。
天蓬は観音の養子も同然だった奴だ。 自分では認めたがらないが。
しかし、梁緒の口にした言葉は、もっと凄まじかった。

「 そうか、あんたも知っていて庇っていたのか。 全く世の中、何が起きるか分からん。 あの観音に隠し子が居たなんて ・・・。」
内心でド派手にずっこけたが、口に出しては言わずにおいた。

そこまで馬鹿げたことを言い出す者は、観音本人をおいて他には無い筈だ。
大体がそれ、母親って意味か?それとも父親を名乗ってるんだろうか?なんて、つい馬鹿みたいな妄想に走りそうになったじゃないか。

俺は、脅えたように軍を出て行く梁緒を見送ってやった。
嫌な奴だったし、間違っても俺の好みではないが、出てゆく時には誰か一人くらい見送ってやる方が、天蓬が更なる恨みを買わなくて良いだろう。

梁緒は肩を落として、とぼとぼと西方軍の敷地から出て行き、やがて視界から消えた。
丸一週間天蓬に嫌味をしたり、出合う度に暴行を加えたりしていたらしいが、最後は呆気無かったな、と思った。



その後、俺は自分の部屋に戻って、何気無しに貰った本を広げてパラパラと読み始めた。
甘ったるい絵に、問題点が単純化された陳腐なストーリーが鼻に付く。
だが、読み進んでゆくと確かに、くすりと笑える点も有るにはあった。

単純化された人間関係は、実際にはそんなに分かりやすい筈の無い各人の心模様を豪快に分析しており、嘘と分かっていながら、読んでいればある種の爽快感は得られるようだ。

ふうん?
これで俺にも、ちょいとは天才の心情が垣間見られたことになるんだろうか ・・・?






















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   ―― 碩 学 ――

   2008/06/22
   サブタイトル有り。下段にて表示。
   written by Nachan

   無断転載・引用は固くお断りします。

   ブログへのリンク
   http://akira1.blog.shinobi.jp/

   素材提供:Art.Kaede〜フリー素材
   http://www117.sakura.ne.jp/~art_kaede/










NOTE :

サブタイトルは、『 品性下劣な内実への隠蔽工作としての権威主義的
哲学理論展開に対するソーカル的考察、または私は如何にして心配する
のを止めて水爆を愛するようになったか。』 です。 ( ← 壊れてる ・・・。)

哲学については適当な捏ち上げですが、キューブリック・ファンだったのは
本当で、一番好きな作品は 『 時計仕掛けのオレンジ 』。

因みにわたしの子供時代、映画雑誌などで、『 博士の異常な愛情 または
私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか 』 が、
最も長い日本語の映画の題名と解説されていましたが、実際の最長邦題
は、『 マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって
演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺 』 です。
お間違い無きように ・・・!
 ̄(=∵=) ̄