―― 残 夢 ――














「 御苦労だった。」
何時もの通り、討伐戦の報告を受けた敖潤は、差し出された報告書を碌に
読みもせぬまま書類箱に放り込み鷹揚に頷くと、部下に労いの言葉を掛け
た。
敖潤が再編成された西方軍の責任者の地位に着いて丸一年。
どうにか軍が形を為して機能し始め、自身の屋敷に匿って休ませていた
天蓬を呼び寄せて元帥位に着け、専属の軍師とし、事実上のトップとして
迎え入れてから、凡そ半年が経とうとしていた。
あれほど屋敷を出たい、働きたいと言い続けていた天蓬が、行き先が元の
天界軍と聞いた途端に震え上がり、逃げ腰になるのを引き摺るようにして
西方軍に連れて来た時には、とても新しい指揮官が着任したようには見え
ず、敖潤が手配中の逃亡犯でも捕獲して戻ったのかと、皆から勘違いされ
た程であった。
そうではなく、それが元帥で自分達の上に立つのだと、漸く理解出来ると
今度は、敖潤が自分の愛人を連れて来たと囂囂たる非難が巻き起こった。
敖潤は仕方無く、西方軍内で剣術のトーナメント戦を行うと宣言し、階級に
関係無く、勝ち抜いた者を西方軍の指揮官とするのだと言ってやった。
無論、皆の納得を得て天蓬をトップに据えるための策略であったが、肝心
の天蓬にその意図が上手く伝わらず、来て早々、試合をしろと命じられた
天蓬は、ただ身を竦ませていた。
顔色を失って立ち竦んでいる天蓬を無理矢理試合の場に投げ入れた敖潤
は、天蓬を放り出す際に後ろから顔を近付け、耳元に囁いた。
「 誰にも文句を言わせぬ勝ち方をするんだ。この試合でお前がトップに立
てるかどうかを決める。もし、トップを取れなかったらその時は ・・・。」
手を放す直前に付け加えた。
「 お前に私の部屋への入室は許さんし、以降の付き合いも無い。お前は
独りで西方軍に勤務することになる。」
螺子を巻いておいたのが功を奏したものか、それとも元々の実力差が大き
かったものか、天蓬は人が変わったように剣を振るい、居合わせた兵士達
の誰にも有無を言わせない形で悠々と勝ち残った。
その圧倒的な強さを目の当たりに見せ付けられた兵士達は、今度こそ喜ん
で天蓬を迎え入れたが、天蓬の方は相変わらずぎこちなかった。
以前の事件で余程懲りたのだろう。あれほど良く似合っていた軍服で兵営
内を歩くことも出来ず、寧ろよれよれの格好をして、すぐに自室に閉じ篭り
たがってどうしようもなかった。
それでも、責任感だけは人一倍強かった天蓬は、本職の戦略で人命重視
の作戦を立て、それに自身が参加して指揮を執ることで成果を挙げてゆき、
僅か数ヶ月ほどで、見事に常勝西方軍の地位を築き上げた。
部下思いで威張ることを知らない性格も好まれ、次第に名指揮官としての
立場を確保していった。
戦闘以外の仕事に就いたことも無く、それ以前にも観音の屋敷で主人一家
の一人として扱われてきた天蓬には、生活に必要な能力が欠けていたが、
そういう場面では敖潤が庇うまでも無く、何時の間にか見かねた部下達に
援助されるようになっていた。
表立って口に出すことこそ無かったが、仕官の数名が交代で天蓬に寄り
添い、生活の面倒を見始めていたのである。
当初、公私混同だと嫌がっていた天蓬も、何度か部下に叱り付けられる内
に納得し、べたべたした甘えこそ見せたがりはせぬものの、最近では自然
に手伝わせたり任せたりするようになった。
トップがこういった弱みを持ちながら、研ぎ澄まされた戦略を繰り出して来
るというのは、軍全体にも良い刺激になったようである。
虚勢や威嚇といった表面上の軍人らしさより、内実と成果が重要という概念
が定着した西方軍は、荒くれてはいないがやることはやる集団だという評価
を受けるようになり、敖潤としても鼻が高い思いがした。
・・・ このように、概ね何もかも万々歳に上手く行っているように見えた西方
軍と天蓬ではあったのだが、唯一つ、敖潤には気に食わないことがあった。





「 天蓬 ・・・?」
呼び掛けると天蓬が頼りない表情を向けた。
「 何をそわそわしている。」
「 いえ、ちょっとその ・・・ 汗を掻いたので早くシャワーを浴びたいな、と。」
ふうん?と不機嫌に返事をする。
シャワーも入浴も余り好きでは無さそうだったのに。
見詰め返されると、ぱっと赤くなった天蓬は逃げるようにして敖潤の部屋を
出て行ってしまった。
怪しんだ敖潤は、天蓬が去って暫くしてから自分も外に出てみた。
廊下を歩いてゆくと、主計課の若者が制服を抱えて歩いているのに目を
止めた。先程、報告に来る前に軍服を脱いでしまい、私服で現れた天蓬を
見たばかりであり、それに引っ掛かりを感じていたのである。
「 ちょっと待て。」 敖潤は若者を呼び止めた。
「 それは誰の制服だ。」
「 天蓬元帥のものですが ・・・?」
若者は答えた。
「 何故お前が持っている。」
「 修繕を頼まれたのですが、縫い目でも何でも無いところがサックリ切れ
ていて修復不能ですので、新しく拵えようかとオーダーに持ち込もうとして
おりました。」
若者の答えに目を剥いた敖潤は、引っ手繰るようにして制服を取り上げた。
確かめてみると成る程、肩口から胸にかけて、大きく切り裂かれている。
「 あの馬鹿!」
敖潤は唸り声を上げた。
驚き震え上がる若者に制服を投げて返すと、敖潤は大股に歩いて天蓬の
執務室に出向き、乱暴にドアを開けた。
予想通り、そこに天蓬の姿は無い。迷わず風呂場のドアに手を掛け、ぐい
と引くと、「 天蓬っ!」 と怒鳴り付けた。
バスタブに腰掛けて何やら晒しの布を弄っていた天蓬が振り向いた。
鉄錆のような臭いが鼻を突く。足下には戦場で急遽止血に使ったらしい、
Tシャツやタオルを身体から外して捏(つく)ねていた。
どれもが激しく血を吸った状態であり、臭いの元はそれらである。
「 お前という奴は ・・・。」
上半身の着衣を取り去り露わになった天蓬の肩から胸にかけて、長い刃物
傷が付いていた。
「 負傷したら、その場で負傷を申告し、看護兵に任せろとあれほど言って
おいたものを ・・・。」
「 戦闘のほぼ最後だったものですから。後はただ帰還するだけでした。」
天蓬が言い訳にもならない言い訳をする。
「 だったら、何故、帰還後に病棟に出向かなかった。」
「 自分自身にも怪我がどの程度か分からなかったものですから、
見てみようとしていたところです。」
「 そうか。」 敖潤が強い語調のままで同意の言葉を吐いた。
「 では、見てみて医師の治療が要ると納得出来たろう。立つんだ。
今から病棟に行く。」
天蓬は頭(かぶり)を振った。
「 見逃して下さい。閣下 ・・・。自分は ・・・。」
「 見逃せだと?それは、治療を受けようとしているのに、止められた者が
口にして良い台詞だろうに。お前は違う。」
そう言いながら乱暴に天蓬の手首を掴み、引き摺り立たせようとすると、
天蓬は悲鳴を上げた。
「 嫌です、閣下。見逃して下さい。駄目なんです、どうしても。」
構わず引っ張る手に力を込めると、今度は涙声で 「 敖潤様 ・・・。」
と呼び掛けて来た。
天界軍に戻っていきなり敖潤の愛人扱いを受け、恐縮してしまった天蓬は
以降、努めて部下として堅苦しく接しようとしていたようで、屋敷で庇護下に
在った時代の、敖潤様という呼び掛けなどこれまでしたことが無かった。
それが態々、昔の敖潤様に戻ってしまったのを聞いて、敖潤も戸惑った。
ぎょっとして振り返ると、真っ蒼になった天蓬が見て分かる程に身体を震わ
せていた。
思わず手を放し、「 どうした。医者が怖いのか?」 と訊いてやる。
「 怪我を知られるのが ・・・ 怖いんです。」
本気で怯えているような声が返ってきた。
そう言えば、発熱のことも周囲に隠し続けていたようだった。
「 何故?」
「 病気や怪我を ・・・ 見られたくありません。どうしても出来ません。」
放され自由になった手を顔に押し当てると、顔を覆ってしまい、今度こそ
完全に泣き出してしまっている。
敖潤もこれにはすっかり閉口してしまった。
「 しかし、今までだって私に手当てさせていたろうに ・・・。
何故医者だと駄目なんだ?」
「 医者だとでなくて ・・・。自分以外全部駄目なんです。
敖潤様にはその ・・・ 匿って頂いた時点で、全てを明け渡すと決心して
いたものですから、その ・・・ 何をされても良いとそう考えていました。
でも ・・・ 軍の他の兵士達の前に怪我をした姿を晒すだなんて ・・・。
出来ません。後生ですからさせないで下さい ・・・。」
今にも気でも失いそうな深刻な様子でそう言われて、どうにもならなくなった
敖潤は、取敢えず服を着ろと命じた。
「 私以外に怪我を見せなければ良いんだな?」
天蓬がこくんと頷いた。
「 付いて来い。」
命じてから先に立って部屋を出た。
もと着ていたシャツは血塗れてすっかり駄目になっていた。
天蓬はその辺にあった黒のTシャツを大急ぎで引き被ると、敖潤に従って
部屋を出た。


兵営の廊下を、ただ項垂れて敖潤に付いて行く天蓬の姿を通り掛った部下
たちが、何事かと不審気に眺めたが、先に行く敖潤の機嫌が悪そうで、誰
にも呼び止められない。
しかし、兵営の端まで来て、そこから出そうになった時、一人の下士官が声
を掛けた。
永繕 ・・・ 士官学校出身ではなく、最初から職業として軍人を選んで入隊
した若者で、軍規違反が多く他軍から放り出されたものを、履歴書を眺め
ていて気に入った天蓬が引き取り、目を掛けてやっていた。
何故肩入れするのかと尋ねた事があったが、その折に天蓬が返した返事
は 「 自分に似ています。」 というものであった。
ごつごつした面立ちながら身体全体には丸みを帯びた若者の風貌に、敖潤
には全く共通項が見出せず、何だそれはと思ったが、それでもその若者は
時々上級仕官に混じって天蓬の世話を焼くようになり、ごく最近では食事の
管理までしているようだった。
それ以降、軍規違反は無くなり、天蓬に影響を受けてか、寧ろ静かな語り
口で部下を庇う行動を取るようにもなり、戦功も上げている様子だ。
その男が異様な景色に気付き、駆け寄って来た。
「 敖潤閣下 ・・・ 何か大事でも?」
永繕は先に敖潤に声を掛けた。
「 うん、いや ・・・。」 敖潤は口篭った。
怪我や病気は知られたくない ・・・ 泣きそうになって必死に言い立てていた
様子が頭を過(よ)ぎった。
「 軍規違反が酷いのでな、もはや捨て置けぬと思って ・・・。」
「 誰が ・・・ でしょう?」
「 天蓬が、だが?」
永繕は驚いて敖潤を見詰めた。
天蓬が実の兄のように恃む敖潤ではあったが、残念ながら西方軍の他の
兵士たちの中では、余り温情派とは見做されておらず、寧ろ規則重視の
堅物との評判ばかりが先行していた。
「 そんな・・・。今日も元帥は戦勝を上げられていますが?」
永繕はきっと、敖潤が天蓬の些細な規則違反を論(あげつら)ったものだ
ろうと想像した。
「 負傷隠しだ。以前にも何度か見咎めたが、今回は刀傷を自分で処置し
ようとしていたので、見逃せなくなってな。」
「 刀傷 ・・・。」
永繕は初めて知った事実に身体を震わせ、恨めしそうに天蓬を見上げた。
その日の戦闘の終了間際、油断していた永繕は捕らえていた筈の敵の兵
士に襲われた。突然の逆襲を受けて、自身の刀剣を取り上げられ斬り掛ら
れたのだが、バランスを失っていた永繕には躱(かわ)し切れなかった。
それを、事態を見て猛然と駆け込んで来た天蓬に弾き飛ばされて命拾いを
していたのである。
永繕を突き飛ばした天蓬はそのまま敵と対峙し、結局はもう一度捕らえて
他の部下に引き渡したのだが、何故かその後永繕に声を掛けることも無く、
物も言わずにとっととゲートに戻ると、独り先に天界に帰還してしまった。
ゲート付近で誰かに二言三言、短い指示を与えていたが、どの道戦闘は
既に終了していたので、そう不自然にも見えず、その場の誰もが部下の失
態に天蓬が機嫌を損ねたのだろうと思い、それ以上深く考えはしなかった。
「 あの時か ・・・!」 永繕は悔しげに呟いた。
「 敖潤閣下、その怪我は ・・・。」
怪我に思い当たった永繕は身を乗り出し、敖潤に説明しようとした。
その時、それまで黙って俯き、敖潤に従っていた天蓬が急に顔を上げた。
「 戦闘に付いて言いたいことが有るのなら、後日ボクに言って下さい。
ボクとしては幾ら何でも、目の前で部下に無視され、直訴されたくはありま
せん。」
「 しかし、怪我というのは ・・・。」
「 永繕っ、黙って!」
天蓬が珍しく部下を叱り付けるのを見た敖潤は事情を察した。
その点でなら、このような場面にあっても、取敢えず天蓬の意向に沿うよう
に振舞ってやろう、というくらいの気は起こす上司である。
「 永繕、怪我の理由は関係無い。咎めているのは此奴の負傷隠しの性癖
だ。初犯でも無いのでこの際、暫く営倉で頭を冷やさせることにした。」
「 営倉 ・・・?」 永繕は不審気に問い返した。
「 昔の西方軍の ・・・ でしょうか?あそこは物置になっていますが。」
「 知っている。一部屋だけ荷物を他に移して空けておいたんだ。
天蓬には何かと軍規違反が多いのでな、遅かれ早かれ見逃すことは出来
なくなると思って、自分で整理した。」
恐らくは今の遣り取りで事情を察した筈の敖潤にそう言われては、それ以
上の説明も無駄であろう。
それに、今回のことでは気が咎めたものの、天蓬の負傷隠しについては、
これまでから永繕も薄々は承知もし、嫌っても来た。
永繕には、倉庫となっている営倉を態々自分で整理したという最高責任者
を、ただ見送るしかなかった。
口を噤んでしまった永繕を残し、再び敖潤が歩き出すと、天蓬もまた黙って
付き従って行った。
永繕が呼び止めたとき、何人かの兵士が便乗してその遣り取りに聞き耳を
立てていたが、彼らもただ呆然と二人を見送った。
僅か半年の付き合いではあったが、既に部下達は通常権威には無頓着な
天蓬が、何故か敖潤には絶対服従であることを見抜いていた。
昼間見た光景と先程の永繕との会話から、凡その事情は理解出来ていた
彼らは気の毒にと同情はしたが、天蓬が逆らいたがらないのも知っていた。
それ故今日も、敖潤が営倉を使うと言い出せば、天蓬は黙ってそこにぶち
込まれるのだろうと思って眺めたのであった。


「 此処だ。入れ。」
営倉の建物の一番奥の部屋の分厚い扉が開かれ、敖潤が中を指し示し
た。
促されて天蓬が部屋に入ると、敖潤は部屋の中ほどに吊るされた裸電球
のスイッチを入れ扉を閉めた。
窓の無い営倉の一部屋が不十分な明かりにぼおっと照らし出されると、壁
の一面を背に鎖や枷や鞭といった拷問道具の類が大量に積み上げられて
いるのが見えた。
天蓬は一瞬大きく瞳を見開いたが、直ぐに力無く俯いてしまった。
「 いや、それは偶々此処にあったものだ。片付けたのは一部屋だけだった
のでな。ここは手付かずだ。」 天蓬のその様子に敖潤が照れたように言い、
もう一度確認を付け加えた。
「 お前、どうしても病棟に行く気は無いのか?」
天蓬の返答は同じである。
「 後生です。させないで下さい ・・・。」
「 お前も知っているように、私は軍人一族の一員として育って来た。
当然に一応の治療は出来るが、専門的な知識は無い。
しかも、持っている知識は治ればそれで良かろう式のもので、本人の苦痛
には全く配慮しないものばかりだ。
私がお前ならこの場で、どうか病棟に行かせて下さい、と懇願するところ
なのだがな?」
どうあっても執拗に持ち出される病棟の話に、天蓬はまたも涙目になって
強く頭を振った。
「 嫌です ・・・ 怪我を人に見られてしまいます。」
余程の恐怖を感じていたのだろう、声が震えてしまっていた。
「 仕方が無い。」
敖潤は呟きながら、部屋の中にある入り口とは別のもう一つの扉の鍵を
外し始めた。
部屋は二重になっており、今居る部屋を通らないと入れないもう一つ奥の
部屋を有していた。敖潤が片付けたというのは、その奥の部屋らしい。
ガチャリと錠前の外れる音がし、次いで扉が開かれる重い金属音がした。
「 入れ。」 敖潤が再度命じた。
天蓬はやはり窓の無い真っ暗な部屋に足を踏み入れた。
背後で扉が閉まる気配がし、ぱっと明かりが点いた。
成る程、隣とは違って、こちらの部屋にあったらしい荷物はすっかり取り除
けられている。
綺麗に片付けられ、壁紙が張られており、営倉の石牢といった雰囲気は
払拭されていた。
部屋の隅には何時の間にか持ち込まれた寝台が置かれていた。
それ以外に家具は無く、一方の壁に更なるドアがあるのだけが見える。
「 向こうは水周りだ。」
敖潤が扉を顎でしゃくってそう説明した。
「 兎に角、上着を脱いで寝台に上がって横になれ。」
言われた通りにすると、寝台の上方に設置された明かりが点り、その光が
負傷した肩口に向けられて、仔細に調べられた。
「 天蓬 ・・・。」 陰鬱な声がした。
「 とてもじゃない。これは薬を付けてどうこうというようなものではないぞ。
縫わないと塞がらないだろう。」
「 自分も先程そう思って眺めていました。」
「 自分も ・・・ って、それでお前、どうしようと考えていたんだ?」
「 ・・・ 自身で縫おうとしていました。洋服の修繕は出来ませんが、それは
経験的に多少出来るものですから ・・・。」
「 何を言っている。傷が肩口では麻酔すればお前の腕も痺れて ・・・。」
言い掛けてはっと息を詰める。
「 お前 ・・・ 麻酔無しに縫おうとしていたのか?」
天蓬は頷いた。
「 泣き虫元帥が何ということを ・・・。」 言ってはみたが、天蓬が苦痛に根を
上げたことが無かったのは知っていた。
「 物事には限度が有るだろうに。
傷がこれでは休養期間も要るだろうし、やはり病棟に出頭して医師に見せ
た方が良い。自動的に公傷扱いにもなる。」
「 敖潤様 ・・・。」 またしても甘えたようにその名で呼び掛けてくる。
しかし、それは意図してしていることではなく、自然にそうなってしまうもの
であるらしく、天蓬の顔付きは深刻であり、見るからに怯えてもいた。
この状態で医師の手に引き渡しても、良い結果が得られるようには、到底
見えない。
「 お前は ・・・。今回限りだぞ?」 敖潤は遂に折れた。
「 私がしてやることは出来るが、ちゃんとした麻酔処理は無理だ。
そちらの経験は無いんだから。」
「 麻酔無しで大丈夫です。お願いします ・・・ どうか ・・・。」
「 いや、幾ら我々でも麻酔無しでというほど、大胆なことはせんが、注射
一本の局所麻酔になる。」
見れば今度は縋り付くように両手で敖潤の腕を持ち、懸命に頷いている。
「 分かった。では、道具を取って来よう。此処から出ずに待っているんだぞ?
一歩でも出たら、捕らえて病棟に引き立てるからな?」
「 はい。」 と天蓬は素直に答えた。
敖潤が出て行く背後に、「 申し訳ありません、閣下。」 と声が掛かった。
「 何を申し訳ないと思っているのやら。お前は軍人なんだから負傷は構わ
ん。許せないのは毎回の負傷隠しだ。分かっているのか?」
天蓬は答えなかった。
答える代わりに、寝たまま壁の方に顔を背けてしまった。
その様子に、先程麻酔の話と今回限りだという話を一緒にした際にも、天蓬
が見事に麻酔の方にだけ、返事を寄越したことが思い出された。
癖は悪いが裏切りはしないのだとは分かっている。
それはきっと次に負傷しても、申告出来そうに無いという意味なのだろう、と
敖潤は思った。





手荒い手術を施され、その後痛み止めを多目に飲まされた天蓬はうとうと
して過ごしていた。
戦闘の疲れと負傷、更に敖潤に見付かって手酷く叱られたことでそれに
気疲れが加わり、持ち込まれていた寝台が上等で居心地が良かったこと
もあって、眠気に抗えなくなっていた。
それでも、今、天蓬は眠りたくないと思っている。
それまでの数年間を、敖潤の屋敷で療養して過ごしていて、敖潤に手当て
されることに多少慣れてはいたものの、やはり他人に負傷を知られるのは
辛かった。
こういうことのあった日には必ず嫌な夢を見るに決まっているのが、分かっ
ているだけに眠るまいとするのだが、天蓬を気遣った敖潤は逆に痛み止め
に誘眠効果のある薬品を選んでおり、その上、眠り易いようにと暖かいスー
プを飲ませて、柔らかい寝台に横たえ、空調を利かせていた。
治療を終えてほっとしているところへ、薬と心地よい室温が加わっては否が
応でも眠気を誘われる。
襲い掛かってくる眠気に抗って、天蓬は涙を零した。
「 何を抵抗しているんだ。あんな処置を受けている間も平然としていた癖に、
今頃になって。」
敖潤は急に暴れ出し、身体を捩らせ始めた天蓬を押さえ付けて嗜めた。
「 眠りたくありません ・・・。」
敖潤の押さえ付け方は、決して天蓬を傷付けようとするものではなかった。
優しく庇われている感覚に益々眠気を強くした天蓬がとうとう眠りに堕ちる
間際にそう呟いた。
やっと意識を失くした強情な部下に敖潤は溜息を吐いた。
そう言えば、天蓬を自身の屋敷に連れ込んで匿った際に、観音から、
「 あ奴は治療を嫌うだろう?」 と訊かれたことがあった。
その時点ではそんな風に思ったことが無かったので、いや、そういう天蓬は
存じませんが、と答えたものだ。
観音は痛ましそうに目を伏せて、
「 そうか。筋金入りの治療嫌いだったんだがな。今はお前に全てを託して
いるのだろうな。あ奴はきっと、お前が殺してやるから首を突き出せ、と言
えば、そうするのだろう。」 と不気味な言葉を吐いた。
まさか、と思ったが、現にこうして此処で揉めていると、観音が正しかったと
思い知らされる。
この半年の間、立てる戦略にも、実戦の指揮能力にも、上司としての人格
にも全く問題の無かった天蓬ではあったが、負傷隠しが気に掛かっていた。
これまで、精々が当たり損ないの矢の擦過傷や相手と直接対峙した際に
加えられた力による鬱血程度であったので、然程気に留めずに来たが、
刀傷とあっては今度こそ見逃せなかった。
人間とは異なった再生能力を持つ天界人として生まれ、通常の刀傷であ
れば、治療すれば跡形も残らない筈なのだが、拗らせたり、欠損を作れば
その痕は立派に残る。
仮に天蓬が自身でするという処置が正しいものであって、痕を残さないに
しても、その間苦しむのも確かである。
第一、負傷を申告しなければ、休養期間も得られない。
そうしているうちに、次の出動命令も有り得て、そうなった際には恐らくその
まま出動してしまうであろうことを想像すると、どう考えても許せない性癖だ
としか思えなかった。
そこまで陰惨なことを考えて、自分でも気が滅入った敖潤が、首を振りな
がら、ふと天蓬を見ると、今までの想像とは裏腹に憎らしいほどに綺麗な
顔をして眠っている。
頬に涙の跡が残り、不本意に寝入ったことで少々顰め面になってはいた
が、それでも眠ったことで表情が緩むと、その顔は美しかった。
要するに最初から整った容姿なのである。
「 やれやれ ・・・。」
敖潤は呟きながら、その顔から眼鏡を取り去った。


夢の世界が広がり始めていた。それとも、天蓬の方が夢に向かって落ち
ているのだろうか ・・・?
そこにある景色は幼い頃の記憶の一角で、夢は両親の死後に引き取られ
ていった里親の家の屋根裏から始まった。
意識の片隅に夢を見ているのだという認識を残していた天蓬は、心の中で
嫌だと叫んだ。
ここから始まる夢が必ず悪夢に発展することを嫌と言うほど承知していた。
季節は天界の年末であるようだ。これは確実に悪夢になると天蓬は思った。





天界では年末は華やかな期間である。
然して娯楽の種類の多くないこの世界では、正月が最大のイベントであり、
正月そのものにも増して、それを楽しみに数え待つ年末にこそ、心楽しさ
を感ずる者も多かった。
何と無く皆の心が浮き立ち、この一年、節約を強いられて来た者達までも
が、来(きた)るべき正月の準備に財布の紐を緩める。
いそいそと大っぴらに買い物をするのは楽しいものであり、だからこそ、この
準備期間が正月自体よりも心が浮き立つ時期だとも言えるのである。
両親を失い、家を失った天蓬が引き取られて行った遠縁の家は、うら寂しい
細い道に面していたが、そこを中央に向けて一直線に辿れば、大きな市場
(いちば)に出る。
位置は外れているが、賑やかな通りとは、ひと繋がりだったのである。
普段人通りが少なく、増して夜になぞ誰も通らぬその道を、年末の買い物
を長引かせた夫婦や親子連れが帰り道を急ぎながら行き過ぎて行った。
どの取り合わせも、一様に大きな荷物を抱え、仕合わせそうに微笑んで
通り過ぎるのを、天蓬は先程から眺めていた。
自室に与えられた屋根裏に空けられた小さな窓からその様子を見ている。
後ろに投げ出している足には包帯が巻かれ、余り身動きが出来なかった。


夢は新たに何かが起こるということもないままに、大した筋書きも持たず、
ただ、自身の子供時代を俯瞰的に眺め、その歴史を辿ろうとするかのよう
にとろとろと続いてゆく。
天蓬は己の来た道を、その意志に反してもう一度見せ付けられていた。


天蓬が引き取られた遠縁には子供が居なかった。
ちょっと考えれば、良い条件の所に引き取られたようにも見えるが、実子を
も設けないままで来たその夫婦には、子供に対する理解が一切無かった。
ある程度歳を重ねた夫婦に、更にその夫の方の両親という家族構成であ
り、何れも自身の子供時代のことなど、すっかり忘れてしまっている。
そこに引き取られて来たのが天蓬なのだが、そもそも引き取りたくて引き
取ったという訳でも無かった。
元々縁も薄く、途中に誰かの配偶者であるという縁を挟んだ親戚であり、
血の繋がりも無ければ、それ以前の付き合いというものも無いため、取り
残された天蓬に同情したり、その面影に故人を思い出して懐かしむといった
要素は全く無い。
ただそのままにして置いて野垂れ死にでもされた場合、自分たちが縁者で
あると知れたら如何にも世間体が悪いという、そんな理由で引き取った子供
である。
これから子供一人を育てるのだという覚悟も大した知識も無く、ただ見栄を
張って連れて来ただけの子供であり、それまで大事にされていたということ
をやっかみこそすれ、大きく変わった環境にまごつく天蓬に対して、庇って
やろうなどという配慮を与える道理も無かった。
落ちぶれ掛けていたとは言え、名家の一人息子として大事に育てられて
来た天蓬は、行儀も良く仕草も優しかったが、そんな長所に目を向ける者
などは無い。
引き取られて早々に、「 この子は、まともに着替えも出来ない 」 と呆れら
れてしまった。
単に着替えは使用人にさせていたというだけのことで、新しい環境に馴染
ませたいのなら、教えてやれば良さそうなものなのだが、その家のものは
誰も何も教えようとはしない。
子供に関わって、自分たちが簡単に出来ることを態々教えるなど真っ平だ
といった態度で、短絡的に天蓬を知恵遅れと決め付けると、本当に遅れて
いるのかどうかなど、確かめようともせぬまま、そのレッテルを貼り付けて
虐待し始めた。
歳の割りに利発であり、礼儀作法もしっかり躾けられていた天蓬ではあった
が、そんな知識は何一つ問われもせず、料理が出来ないと言っては嫌わ
れ、掃除が出来ないと言っては蔑まれた。
その間も、誰も彼にそれを教えて、新しい環境に馴染ませてやろうとした者
がいない。
しからば ・・・ と、子供なりの知恵を働かせた天蓬は、盗み見て覚えようと
試みたが、この一家の者は、それを 『 煩(うるさ)い 』 と言って嫌い、天蓬
を遠ざけた。
出来上がりからの逆算で工夫して何とか遣ってのけたことにも 『 教えても
いないのに自分でここまでするとは 』 などと好意的に解釈しては貰えず、
ただ大人のしたものと水準が違うと罵られて終わってしまう。
その際に必ず 『 二度とするな 』 と禁止を食らわせるので、益々出来るよう
になりはしなかった。
子供の手に成る不器用な作品を今後の発展を期待して喜んで見せようか
という気持ちなど、彼らは間違っても持ち合わせてはいなかった。
気難しく子供嫌いな一家は、子供には教えもし練習させもしなければ出来
るようにはならない、とさえ理解を示さぬまま天蓬を嫌い続け、最低限生か
しておけば、世間に申し開きが出来るだろうと考えた。


考えてみれば、摩訶不思議な立場である。
こき使われもしなければ、役に立つことさえ望まれない。そして、只管疎ま
れているという己(おの)が存在 ・・・。
常々天蓬は近くの少々羽振りの良い屋敷に抱えられている奴婢たちを羨ま
しいと感じていた。
ごくごく小さいうちから厳しく仕事を仕込まれ、時々打ち据えられたりもして
いる様子ではあったが、彼らはその後、そうして習得した仕事で望まれて
そこに居られるのである。
「 ボクも奉公に出たい ・・・。」 屋根裏の小窓から使いに出された奴婢の子供
が小走りに屋敷に戻って行く様を眺めて、時々そう思った。
良いものは食べさせて貰っていないのだろうが、仕事が出来ないようには
されていない彼らは、大抵天蓬よりも体格が良かった。
遺伝的なものか、上背だけはあったものの、今の天蓬は痩せこけて、見る
影も無かった。
食事も出せないような貧乏をしている訳でも何でもない家に引き取られて
いながら、食事が碌すっぽ取れていない。
食べようとすると、『 働きもしないくせに 』 『 全くの無駄飯食いが 』 の罵声
が飛んで来て、まともに食事出来るような環境ではなかったのだった。
良い意味には勿論のこと、悪い意味にすら全く誰からも望まれていないと
いう状況は、ある意味、如何様な暴力の下に置かれているよりも情けない
ものがある。
天蓬が味わっていたのは、そういう極限的な孤独感と実際の身体の疲弊
の両方であった。


年末を迎えたある日、天蓬は養父と擦れ違い様に 「 煩(うるさ)い!」 と
突き飛ばされ、床に叩き付けられてしまった。
この家の者には、天蓬が姿を見せることが、『 煩い 』 だったのであるが、
その日の天蓬は倒れたまま中々起き上がれなかった。
栄養状態の悪かった天蓬は筋肉の量を減らしており、子供時代には通常
しっかり連結出来ていない関節をカバーするものが無いまま、緩い関節を
剥き出し状態にして暮らしていたのだが、叩き付けられた拍子に足の付け
根の関節を簡単に外していた。
痛みすら感じぬ程に呆気無く外れた関節は、しかし、天蓬が起き上がろう
とすると、底意地の悪い痛みを伝えてき始めていた。
やっとのことで立ち上がってみると、酷く足を引き摺らないと歩けない。
それを見た養父は、自身が突き飛ばしたことも忘れて、怒りに唸り声を
上げた。
「 この年末の物入りな時に、怪我をして我々に負担を掛けようとするのか、
お前はっ!」
「 いえ ・・・。直ぐに良くなります。」
天蓬は慌ててそう答えたが、腹が痛いとか、風邪を引いて高熱を出した時
には無視して放置したはずの一家は、直ぐに天蓬を医師のところへ連れ
込んだ。
つまりは、どう転んでもこの一家の者には、天蓬が感じる苦痛などに同情
を寄せる習慣など無かったのだが、今回は天蓬に足を引き摺って歩かれた
くはないという一心で医者通いが許されたようだった。
年末に思わぬ出費を強いられて怒りを爆発させた養父の不機嫌をそのまま
受け継ぎ、更に夫に八つ当たりされたこともあって、それに輪を掛けて不機
嫌になった養母に引き立てられるようにして、医者の家に連れて行かれた。
年末の駆け込み診療で込み合う受診希望者の多さに、散々に待たされた
挙句、夜になってやっと、外れた関節を元に戻された。
とっぷりと日が暮れた帰り道、支払いの意外な高さに頭に血が上(のぼ)った
養母から、ずっと詰(なじ)られ通しに詰られた。
足を引き摺っているのに肩も貸してもらえない天蓬は、市場から帰ってゆく
親子連れに何度も追い抜かれた。
山のような買い物をし、二人で荷物を分かち合って持つ両親の間に挟まっ
た小さな生き物は、大抵市場に出たついでにと玩具などを買い与えられて
おり、それを途中で開けてしまって嬉しそうに手に持っていた。
きゃっきゃとはしゃぐ子供を真ん中に、出費などこの笑顔を得られたことに
比べれば何ほどのことでもないと言いたげな、両親の温かみのある顔が
それを見守る。
寄り添うように三つ並んだ影が天蓬の傍を通り過ぎてゆく。
また一組の影が行き過ぎて、辺りに人の気配が途絶えた時、養母が不意
に立ち止まって天蓬に告げた。
「 本当に我慢出来ない。お前が来てから、碌な事が無い。」 と。
そして、天蓬から少し身体を離すと、「 もう、帰って来なくて良いから、何処
へでも行って、とっととくたばって来るが良い。」 と言い放ち、さっさと独りで
家に戻ってしまった。
取り残された天蓬は呆然と立ち竦んだ。
そこへ、またしても、仲の良さそうな親子連れが追い抜いて行った。
今度は母子のようだが、彼らもまた楽しげである。
天蓬は悔しそうに親子の後姿を見送った。
母親に甘えて歩く子供の方は、丁度天蓬くらいの年恰好であった。


数時間後、結局行き場の無かった天蓬は、元の里親の家に戻った。
帰ってくるなと告げた養母が戸を開けたが、別に押し出すような真似はし
なかった。
要するに大声でも出されて、家で揉めて近所に知られたくないのである。
養母は黙ったまま、一歩脇に退いて天蓬を中に入れてくれた。
勿論、そのまま唯で済む道理は無かった。
家に入れられた天蓬は、役立たずだ、年末に出費させたと、散々に罵られ、
詰られた挙句、
「 今度怪我をしそうになったら、後腐れ無いように死んでしまえ。必ずそう
しろ。さもないとまた治療費が掛かる。」 と言い渡された。
「 お願いですから、何か仕事をさせて下さい。そうすればお役に立てます。
今は何も出来ませんが、必ず覚えますので ・・・。」
天蓬はもう一度これまで言い続けて来たことを持ち出してみた。
益々不機嫌になった養父が天蓬を蹴り飛ばした。
「 何も出来ない知恵遅れに、何で我々が物事を教えなきゃならない。
我侭を言うくらいなら、とっととくたばってしまえ!」
それが、本音なのだろうと天蓬も思った。
諦めた天蓬は、「 もう致しません。」 と頭を下げ、屋根裏の自室に帰ろうと
した。
背後に追い討ちを掛ける養父の声がした。
「 全く ・・・。貰い子では、働かせたら働かせたで、体裁が悪いし、どうにも
扱いようが無い。あれでまだ生きて居たいと感じる神経と言うものが分から
ん。」
その言い草に、養母が追従して付け加えた言葉も天蓬には既にお馴染み
のものではあったが、かと言って平気になれるという物でもない。
「 知恵遅れの上にあの容貌ときては、将来はどうせ男娼と決まっている癖
に、何で私たちが養ってやって一人前に扱わないといけないのだか!」
何度も聞かされ、逆算的に意味を知ったその言葉は、持ち出される度に
天蓬を傷付け打ちのめした。


次の日、天蓬は部屋から出もせずに、ぼんやりと小窓から往来を眺めて
過ごしていた。
働けとも望まれていない身では、姿を現さないのが一番無難と言う立場で
あり、昨夜あれほど家人を怒らせてしまった天蓬にはそれ以外にどうしよう
も無かった。
そして今日もまた、賑やかに通り過ぎる家族を眺めていたと言う訳である。
天蓬がそうして過ごしており、食事も取っていないと知っていても、気遣う
者も居らず、そのことで 『 死んでくれるのが一番 』 という言い草が勢いで
口を衝いて出たものでは無いと窺い知れた。
今も一人、何処かの屋敷に仕えている奴婢の少年が通り過ぎた。
粗末な一重の着物に紐だけの帯 ・・・ 誰にもそれと分かる姿ながら、それ
はそれなりに人生を楽しんでいるのだろう。血色も中々良い。
今となってみれば、天蓬に羨ましく感じられるのは、寧ろこちらの少年であ
った。
仕合わせそうな家族連れの景色は、自身とは余りにもかけ離れ過ぎてし
まって、天蓬には及びも付かなくなっていたのである。
養父母に再三に亘って将来は男娼と不気味な予言をされる内に、当の天蓬
にすら、自身が好まなくとも運命(さだめ)というものがあって、行く末はそう
と決まっているのではないか、としか考えられなくなっていた。
たとえ男娼でも、今ほど誰からも望まれていない立場よりはマシかも知れ
ないと思える反面、僅かに記憶に残る両親の姿に思いが及ぶと、それでは
申し訳が立たぬ気がして辛かった。
だからせめて、何処かの屋敷に奉公にでも出られれば、身分は卑しくとも
両親に申し開きが出来るだろうに、と思う。
それがその歳の天蓬に出来た精一杯の算段であったが、実際のところは、
奉公に出ようにも奉公口を探す手段も持たなかった。
屋敷内の一角に住まわせて暮らさせる下働きの奉公人は、代々その家に
仕える奴婢であるのが普通であり、欠員を補充するにしても通常、今居る
雇い人の縁故の者を呼び寄せるのが精々である。
天蓬にはそういう伝手も無く、零落れた今の姿では本人の信用というものも
主張のしようが無い。
結局、遅かれ早かれ此処を出て、養母の予言通り身体を売って暮らすこと
になりそうな絶望的な予感があった。
そういう暗い思いを抱えて、毎日窓の景色を眺めた子供時代が、天蓬の通
り抜けて来た道である。





この年末の脱臼事件で、一度はっきりと 『 死ね 』 という言葉を口にした一
家は、それを切っ掛けに自分達の気持ちの中にもこれまで少しはあった
自制を完全に失ってしまったようである。
以降、一家が天蓬に投げ付ける言葉には、幾ら何でもという限界が無くな
ってしまい、此奴相手なら何処まで罵っても一切構わんと言わんばかりに
惨い言い様をするようになった。
自らが発した荒んだ言葉に合わせでもするように、暴力も酷くなってゆく
ばかりであった。
だが、こんな環境の中に在っても、月日はそれなりに流れて行くものであ
る。天蓬は虐待を受けながらも、細々と命を繋いでいた。
もう致しません、とその時誓いはしたものの、元々怪我の原因が自身の落
ち度では無いのだから、怪我は止めようがなかった。
その後は益々食事が貰い難くなっていたこともあって、筋肉が薄く痩せ、関
節が益々抜け易く、骨も脆くなってゆき、殴られ蹴り飛ばされる度に、あち
こちを脱臼し、時々骨折にまで至るようになってしまった。
それでも天蓬は、何時の間にか自身で関節が嵌め込めるようになり、骨折
までも独自に治療を施せるようになっていた。
外から抑える力が足りないという同じ原因で、脱腸の症状も出していたが、
こちらも試行錯誤の末に見付けた独自の方法で、手で押し戻していた。
何れも栄養失調の一症状であったが、気遣う者も無いままに、処置にだけ
手馴れていった。
それにしても、それ以前から扱いが悪かったとはいえ、あの時初めて露骨
に、お前は役立たずの疫病神で、死んで欲しいのが我々の本音だ、と言い
渡された言葉は、幼かった天蓬の心にも鮮烈な印象を刻み付けた。
そんな台詞は二度とは聞きたくない ・・・ 思い詰めた天蓬は、次第に怪我
と病気をひた隠しするようになっていった。


やがて、気の遠くなりそうな我慢を重ねたのが報われたものか、出奔−浮
浪児−男娼 という御定まりの転落パターンを辿らずに済んだ天蓬は数年
後、里親の許を逃れて観音に引き取られて行った。
本人の希望通りに奉公人として望まれて生きるという願いこそ果たせなかっ
たものの、足に逃亡除けの重しを付けられていたことと、主人一家の一員
として扱われ、充分に食べさせられたことで、徐々に脱臼癖を克服した。
ま、一応、そこが弱いと分かっていて、態とに日の当たるところに出ては、
一人で小まめに体操を続けていたという事情も有ったのだが ・・・。
ついでに、脱腸の方も知らぬうちに治っていた。
こちらは、栄養失調が改善された時点で勝手に治ったようで、天蓬自身も
好い加減忘れており、ある日、そう言えばもう長く治まっているなと気付い
たという治り方であった。
一方、教えることを煩がられて覚え損なった家事などの生活技術は、まる
で駄目なまま、どうにもならなかった。
何しろ指導している筈の観音がそれを全くの不得手としており、召使いに
させることが正しいのだと開き直ってしまっていたのだから、盗み覚えよう
にも見本が無かった。
それでも、天蓬が観音の言うことを聞いてそのまま学者になり、観音の所
から、世に出して貰えば多分、何の問題も無かったのだろうが、途中で
船から飛び降りるような真似を仕出かし、軍隊入りを果たしたため、出来
ないのが目立つ結果となった。
しかし、世の中は何とかなるものである。
今では別の才能を認められ、それを見習いたいという若者が、入れ替わり、
立ち代り、世話を焼いてくれていて不自由は無い。
ただし ・・・ その極楽のような居場所に居てさえも、避け切れない問題が
一つだけ残っている。





「 くっ ・・・!」
短く呻くと天蓬は悪夢から現実に戻った。
暫く忘れていた幼い頃の脱臼の夢を見ていたことに我ながら当惑する。
悪夢の余韻に一頻り身体を震わせると、のろのろと起き上がり周囲を見回
した。
目が覚めた時の違和感が最初に目に飛び込んで来た天井や壁紙の所為
だと漸く理解出来た。
「 此処は ・・・。」
ゆっくりと自身の置かれた状況を思い出した。
そうか、敖潤閣下に縫合を受けたのだった、と思い出し、縫われた肩に目
を遣って確かめた。真っ白で清潔な包帯が巻かれている。
しかしその処置をしてくれた敖潤は既に引き上げたらしく、姿が見えず、そう
と分かると急に不安感が募った。
天蓬は起き上がり、枕元に置かれていたTシャツに手を掛けると、その上
から転がり落ちそうになった眼鏡を取り上げて掛け、シャツを着込んだ。
寝台を離れ、最初の扉を開けると、施錠されていなかった扉はすっと開い
たが、その外に出てみると、外側の部屋には外から鍵が掛けられていた。
天蓬は乱雑に物資を脇に退けるようにして積み上げてある一角の床を探し、
そういう場所に良くある針金の切れ端を拾い上げると、それで鍵を抉じ開け、
外に出てしまった。
治療は既に終わっている。外に出て普段通りに暮らしていても、敖潤が見
咎めたりはするまいと高を括っていた。
それよりも、普段それほど孤独に弱くはない筈の天蓬が、悪夢から覚めた
今、酷く人恋しいと感じていた。話し相手でなくても良いから、周囲に人影で
もあってくれれば、と思った。
兵営に戻ってみると、時刻は既に夕食時間の後であり、丁度士官たちが、
士官室に集まってカードゲームに興じている時間帯である。
天蓬は何食わぬ顔をしてそこに入ると、何却か用意されている椅子に座り、
雑誌を読み始めた。
何人かの部下が気付いて挨拶しようとしてくれたが、差し出した掌を下に
向けて押す動作をして止めた。
小声で、「 構わないで下さい。暫く此処に居させて貰えれば良いんです。」
と言う。
今居る者たちの大半が天蓬より年上であり、見張られていると感じる程に
は天蓬を疎んじていなかった彼らは、直ぐに自分達のゲームに戻って楽
しみ始めた。
天蓬にもこの時ばかりは周囲の喧騒が心地良いと感じられ、見るともなし
に雑誌を眺めながら、のんびりした雰囲気を味わっていた。
悪夢が少しずつ遠退いてゆき救われる気がする。
しかし半時ほどした時、その穏やかな時間は突然の怒号に打ち破られた。
天蓬の所在を突き止めた敖潤が、乱暴に乗り込んで来たのである。
「 天蓬!」 怒気を帯びた声で敖潤が名を呼んだ。
天蓬は弾かれたように立ち上がったが、敖潤がドアの前に立ち開(はだ)か
る格好になっており、逃げ場は無い。
「 何故逃げた。」
敖潤が周囲の目も構わずにその場で大声で詰問した。
「 手術も済み、暫く眠って休めましたので、もう良かろうかと ・・・。」
そんな筈が無いのは天蓬にも分かっていた。手術さえ済めば出て行って
構わないなら、扉が施錠されている訳が無い。
それにしても、大勢の部下が居る前で怒鳴り付けられる程には悪いことを
仕出かしたとは思っていなかった。
「 ほほう ・・・。」 敖潤が皮肉に笑う。
「 施錠されていたのに、そう思ったのか。」
天蓬の足下に鎖のようなものが投げ付けられた。
「 拾って自分で嵌めろ。」
天蓬が拾い上げてみるとそれは鎖で繋がった手枷である。
天界軍では確かに軍規違反のあった兵卒に対してこのようなものを用いて
拘束する習慣はあるが、幾ら何でも元帥位に就いている者を引き立てる
道具では無い筈であった。
これには言われた本人よりも周囲がぎょっとしたが、天蓬は逆らわずに両手
にそれを嵌めた。
カチリと鈍い音を立てて枷を閉じると、敖潤が鎖の真ん中辺りを持ってぐい
と引いた。
「 営倉に戻るんだ。今度は脱走出来んようにしてやる。」
部下たちが呆気に取られている中を、天蓬は敖潤に引っ張られて営倉まで
歩かせられた。
何人かが付いて来て天蓬を心配してくれているようであり、その中に永繕が
居るなとも感じたが、声を掛けるどころではなかった。
天蓬を営倉に放り込んだ敖潤は自分もその中に入ると、部下たちの鼻先で
バタンと扉を閉めてしまった。
残された部下達の網膜の隅に鎖だの枷だのの不吉な映像がちらと残った。





「 入れ。」
内側のもう一つの扉を開けた敖潤に促されて中に入った。
「 寝台に腰掛けるんだ。」
天蓬が座ると敖潤も横に腰掛け、手を出させて一旦枷を外してくれた。
しかし、手を下げることは許されなかった。
「 シャツを脱いで、手を突き出しておれ。」
言われてシャツを脱ぎ、手を出していると、手首にガーゼが宛がわれ、その
上に先程とは別の枷が左右別々に取り付けられた。
終わると、寝台に横たえられて、その鎖の先を寝台の頭の意匠部分に繋
がれた。植物のレリーフ に設えてあるが周囲にパイプ部分があるため、鎖
が通せたのである。
終わると今度は、パンツを脱がされ、アンダーパンツだけにされた。
「 足を少し開け。」
心持ち足を広げると、同じように足首にもガーゼが宛がわれ、手と同じに下
方のパイプ部分に繋ぎ留められた。
両手両足を四方に繋がれていることになるが、鎖にはかなりの遊びの長さ
があって、実際には引っ張られておらず、ある程度自由に動かす事も出来
るようだった。
更に眼鏡を取り上げ、自分の胸のポケットに仕舞い、天蓬の脱いだシャツ
とパンツも畳んで抱えると、
「 それで、ゆっくり休む気になれるだろう。」
と、部屋を出て行こうとする。
「 閣下 ・・・。」
天蓬が呼び止めた。
階級を無視した不当な扱いに流石に抗議でもする気かと、敖潤が不機嫌に
振り返った。
しかし、天蓬の口を衝いて出た言葉は予想外のものだった。
「 五分 ・・・ いえ、一分でも結構です。お願いですから此処に ・・・ その ・・・。」
罰を与えようとしている張本人に対してであるので、流石に語尾の方が立ち
消えてしまっていた。
「 居て欲しいと ・・・?」
問い返すと、天蓬が寂しげに頷いた。
無茶は承知の上であった。その無茶を頼める唯一の相手が敖潤なのであ
る。
「 一体 ・・・。」
引き返して来た敖潤は持っていたものを置くと、寝台の中程に腰掛けた。
額に手を宛がい、髪の毛をかき上げる仕草をしながら、
「 どうしてしまったと言うんだ?」
と訊いてやった。
「 先程 ・・・ 夢を見ました。それで、魘されて目覚めたら独りで居て ・・・。
自分は ・・・ 怖くなって此処を出ました。」
天蓬が遂に本音を吐いた。先程の夢がそれ程に堪えていたのだが、それ
が許されそうな予感というものもあった。
「 だから、素直に病棟に行けと最初から ・・・。」
言い掛けると、思い切り頭を振って何度も嫌だという意志を伝えようとする。
「 どうしても駄目なのか。」
「 堪忍して下さい ・・・。」
かなり必死に訴えている声である。
「 分かった。」
敖潤はそう言ってくれたが、見れば尚も立ち上がろうとしている。
「 閣下 ・・・ ?」
恨めしそうに敖潤を見上げる天蓬に、敖潤は今度は穏やかに声を掛けた。
「 食事を取ってくる。お前も私も夕食を取り損ねているのでな。両方持って
来るし、椅子も取って来るから、暫くお前に付き合ってやれるだろう。」
天蓬の顔が現金なまでにぱっと明るくなった。
「 有難うございます、閣下。」
「 全く。怪我は隠す、独りでは過ごせない ・・・ とんでもない欠陥軍師だ。」
そう続けた敖潤の顔が然して怒っていない様子なのに、天蓬はほっとした。


夕食を持って戻った敖潤は、枷を解かずに自身で何度も匙を口に運んで、
赤ん坊のように食事を取らせた。
「 懲罰中だから、そうして食べるんだ。」
口ではそう言ったが、実際には先程出て行こうとした際に呼び止めた天蓬
の必死の声が耳に付いて離れず、改めて怪我を人に見せることの難しさと、
構わないと割り切っている筈の敖潤相手にもかなりの抵抗があり、魘され
る程の悪夢にもなったのだという現実を思い知らされていた。
捕らえてからの大人しく落ち着いた様子に、天蓬が逃げ出したのが、敖潤
からではなく、独りで取り残された恐怖からだったと納得してはいた。
恐らくは先程の悪夢に魘されたという言い訳が正直な理由なのだろう。
「 天蓬 ・・・。」
食べさせ終えると、敖潤が呼び掛けた。
「 以前にも言ったことがあったが、私は ・・・。」
どんな時にもお前の味方だ。そう言おうとしたが、それでは天蓬に負担に
なり過ぎるかとも考え躊躇った。
代わりに、髪の毛を撫でてやると、天蓬が安心したように溜息を漏らした。
「 良かった ・・・。もう、嫌われてしまったかと思いました。」
「 何を馬鹿なことを ・・・。」 心底驚いた様子である。
「 それとも、怪我で気弱りしているのか?」
「 いえ ・・・ 怪我そのものが許せなくて ・・・。」
天蓬の頭上でガチャリと硬い音が響いた。鎖の嵌ったままの手を差し出し
て、敖潤に縋ろうとしたのである。
敖潤がその手を迎えにいって握ってやると、嬉しそうににこっと微笑んだ。
「 閣下 ・・・ 本当に ・・・ 感謝しています ・・・。」
見る間(ま)に目が潤んで涙が溢れ出した。
「 お前は ・・・。」
毎度のことながら、痛みや恐怖には少しの弱音も吐かない天蓬が、人の情
けに触れると、いとも簡単に泣き出してしまうのには感心させられる。
「 あんなに手酷く怒鳴り飛ばされて、人前で枷を掛けられて、今もこんなに
されているというのに、感謝も無いものだろう。」
敖潤は自嘲気味に笑った。
「 多分その全部に感謝しています。」
「 全部に?」
「 叱られたことにも、拘束されたことにも、全部です。閣下は ・・・。」
「 私が一体何だと ・・・?」
「 それを、自分に治療を受けさせようとして、して下さったのですから。」
握っている手に力が篭るのを感じた時、天蓬が付け足した。
「 治療を止めさせるために ・・・ ではなく。」
そちらが、身体を震わせ、手を握り返されることを強く望む理由なのだろう。
もう片方の手で、そっと涙を拭ってやった。
「 案ずるな。ずっと居てやるから。魘されたら私が起こしてやる。」
その優しげな声に安堵した天蓬は、そのまま眠りに落ちていった。
敖潤は約束通りずっと傍に付いていてくれたが、その夜、二度と天蓬が魘
されることは無かった。

























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   ―― 残 夢 ――

   2008/03/16
   天ちゃんの無邪気な(?)子供時代
   written by Nachan

   無断転載・引用は固くお断りします。

   ブログへのリンク
   http://akira1.blog.shinobi.jp/

   素材提供:Heaven's Garden
   http://heaven.vis.ne.jp/










NOTE :

もう殆ど自棄気味に、「 わたしは甘えまくる天ちゃんを描きたいんだ!」
と、開き直ってしまった、甘えん坊&泣き虫シリーズ (???) です。

幼い子供が本来あるべき後ろ盾を失くした時、一番情けないのが、未だ
働けず、自分の居場所が無いということ。
虐待されるから弱る、弱るから虐待されるの無限ループに陥った時、どう
するのが正解なのでしょうね?
天才軍師の天ちゃんだったら、どうするかな? ・・・ なぁんて阿呆みたいな
ことを考えて、ちょっとやらせてみましたが、所詮此奴はわたしの創作物で
しかないようで ・・・。
どこぞのお利口サイトで 「 あなた馬鹿でしょう!」 を連発することで、天才
振りを表現しようとしている天蓬を、おさおさ笑えもせぬ水準です。
書き手に出来ないことは、創作物にも立派に出来ないのな!
・・・ って、作中人物が勝手に意志を持って動き出したらホラーだろっ!?
文章版 『 ドリアングレイの肖像 』 になっちゃいますって!