―― 傷 跡 ――

        後編









  ( 前編からの続き。わざとに 1パラグラフ重複させています。)

気丈な天蓬も事此処に至っては、流石に希望の持ちようが無い。
一縷の望みに縋り付いて長く耐え抜いてきただけに、最後の希望を手放し
た時の絶望感は大きかった。
既に虫の息であった天蓬は近くの谷に放り投げられたが、全てに絶望して
おり、最早、掴まろうとする手を伸ばすことも無く、真っ直ぐに落ちてゆき、
谷底に叩き付けられた。






最後に投げ出された空中で考えたことはね、と天蓬は寂しげに笑った。
「 やっと、苦しみから解放されたという安堵だったんです。こんな姿になって
打ち捨てられたのが地上で良かった、とも感じました。誰にも見られないで
済むと思いましたから。」
身体中に強烈な悪寒を感じて、捲簾が震えた。
最強西方軍の無敵の大将が震え上がるような内容である。
思わず天蓬から身体を離した捲簾を、天蓬は腕に軽く触って引き止めた。
その目が退かないで ・・・ と言っている。
捲簾が身体を寄せると天蓬が先を続けた。
本人が今生きてその話をしている以上、当然と言えば当然だが、それは
天蓬がその時感じた安堵を裏切られる、という物語とならざるを得ない。
瀕死の重傷を負った天蓬だったが、その後土地の水神に拾われ、手当て
されて一命を繋いだ ・・・ つまり、天蓬曰く死に損なってしまったのであった。
「 その谷川の水神が、竜王に連絡を入れ、その情報が地上を探し回って
下さっていた敖潤閣下に伝えられたんです。」
普段快く思っていなかった敖潤の名も、この場面で聞かされると、ほっと
するものがあった。
漸く話に希望が見えて、捲簾も緊張から多少解放されて息が継げた。
「 行方不明になっていたボクを探していたところに情報が入って、閣下が
迎えに来て下さったんです。水神に手当てされて死の危険は去っていま
した。」


天蓬も話しながらその時の様子を思い浮かべているらしく、辛そうにして
いる。
あの時の敖潤の様子は生涯忘れられないものであった。
寝かされていた部屋に、水神に案内された敖潤が入って来るのを認めた
天蓬は遂に来るべき時が来たと、固く目を瞑って身構えた。
何と言われるだろうか?いや、何か言うというよりは、先ず自分を認識して
貰えないだろうと思っていた。
しかし、敖潤は部屋の中程に置かれた粗末な寝台に横たわる天蓬を見付
けると、説明を受けるまでも無く、水神を振り払うようにして部屋に飛び込ん
で来て、真っ直ぐに天蓬に駆け寄り、姿形まで無残に変わり果てた天蓬を
抱き締めた。
「 済まぬ天蓬、遅くなって。私と一緒に帰るんだ、元の世界に。」
天蓬は驚いた。
この人は、自分の姿から醜さを差し引いて眺めてでもいるのだろうか?
「 申し訳有りません。もう遅いと思います。ボクはもう ・・・。」
敖潤はもう一度抱き締める手に力を込めたが、火傷を慮って直ぐに緩める
と、見上げている天蓬の髪に手を宛がいゆっくりと撫でてやった。
「 案ずるな。お前はまだ生きている。何とでもなる。・・・ いや、私が何とでも
して見せる。」
「 いえ、もう ・・・。」
言おうとする口を敖潤が手で塞いだ。
「 観音に会うのが辛ければ会わなくても良いし、我が父上にも今は無理に
会うことはない。私自身の屋敷があるから、そこへ帰ろう。」
敖潤の無骨な手に覆われながらも、天蓬は火傷に引き攣った口を漸く動
かして告げる。
「 ですが敖潤様、ボクは ・・・ もう。」
「 充分だ。」 再び敖潤が遮った。
「 お前は生きており、こんなにされているにも関わらず、正気を保ってさえ
いる。これ以上は望みようも無いほどではないか。頼むから私と一緒に戻っ
て欲しい。私の屋敷で養生するんだ。必ず元の姿に戻してやる ・・・。」
不意に天蓬の目に生まれて始めての不思議な感覚が襲って来た。
何か水分が邪魔をして、直ぐ近くの敖潤の顔がぼやけた。
「 済みません、目が変です。殿下が良く見えません。」
「 涙 ・・・。」
「 涙って ・・・?」 天蓬は驚いている。
「 これが涙?可笑しいですね。哀しんだり苦痛を受けた時に出るものだと
聞いていたのですが ・・・。」
指を宛がって涙に触れ、怪訝そうにしている天蓬に敖潤の方が驚いた。
「 お前 ・・・ 泣いたことが無かったのか?」
「 泣く ・・・ とは?」
「 そのような目に遭って、それ程の苦痛を受けたお前が、それでも泣かな
かったのか?」
「 初めての経験です。殿下のお言葉を聞いているうちにこんなに ・・・。
それで ・・・ これはどうすれば止まるのでしょう?」
その言葉に天蓬が不憫で堪らなくなった敖潤は、寝台に覆い被さるように
して天蓬を包み込んだ。
「 止める必要など無い。泣きたいだけ泣くが良い。だが、お前は私と一緒
に帰るんだ。良いな?」
何と答えて良いか分からなくなった天蓬は、益々酷くなってゆく涙の洪水に
それ以上口も利けなくなっていた。


・・・ 天蓬はそこまで語ると、捲簾の顔を覗き込んだ。
捲簾は黙って頷いてくれた。
敖潤と天蓬の絆の強さが何処から来ているのかを初めて知って、納得とも
嫉妬とも付かない表情を浮かべてはいたが、醜くなっていたという話や
輪姦されたことに対する非難は無さそうであった。
「 閣下の言葉が嬉しくて、有り難くて、ボクは言われるままに閣下の屋敷に
連れ帰られました。そこでボクは、天帝が養生でもしているのか、という位に
大事にされ、至れり尽くせりにして休ませて貰っていました。
でも、落ち着くと直ぐに我に返って、しくじったと気付いたんです。
生かされるべきではなかった ・・・。」
救われた事に対して天蓬はそんな感想を漏らし、溜息を吐いた。
「 それは回復しないと思ったからだろう?」
「 それもありましたが、本当は人の惨さを思い知ったからでしょう。」
「 殺してくれと頼んだのか。」
敖潤に聞かされた事を確認してみる。
「 何年にも渡って ・・・。でも、許されなかった。必ず治すからと説得されて。」
「 治ったじゃないか。綺麗なもんだ。」
胸に口付けていた捲簾が頭を持ち上げて、天蓬の顔を覗き込みながら
言った。肌理の整った頬に口付けを一つ落としてやる。
「 ええ ・・・ 殆ど元通りです。でも、不思議なものですね。身体と顔にされた
ことに比べれば、腕の傷など一番問題無さそうだったのに、竜神の秘伝の
医術を用いても、観音の神通力を施され秘薬を飲まされても、これだけが
消えなかった。」
「 ・・・ お前は ・・・。」
どうしても腕の傷だけは治ったことが理解出来ないらしい天蓬の様子に
焦れて、何か言ってやろうとした捲簾であったが、敖潤のことを思い出し
て言葉を途切らせた。





天蓬がそこで話題を変えた。
「 その治療を受けている途中にね、ボクは一度抜け出したことがあったん
です。中身が治って、火傷跡が全く治っていなかった ・・・ 位の時期に。」
「 治療が苦しくて、逃げ出したのか ・・・?」
「 え?ああ、違います。・・・ いや、でもそうかも知れませんね。確かにそん
なにされて、未だ生きているというのがボクには苦しかったんですから。
ボクは此処へ戻ったんです。東方軍を襲いました。」
「 独りでか。」
「 言ったでしょう?中身は治っていたと。そして、ボクを売り飛ばした上官
や加担した者全員を斬り殺したんです。皆、自分が誰に ・・・ いや ・・・ 何
に襲われているかも分からずに死んでいったみたいでした。顔も姿も全く
変わっていましたし。」
天蓬ならやりかねないと思って聞いた。天蓬の剣法は独特のもので、俊敏
さを生かして、敵にまさかの攻撃を仕掛けることが出来るのを捲簾は知って
いる。
乗り込んだ先が軍隊であろうが、襲ったのが複数の上級士官であろうが、
天蓬なら遣って退けただろう。
「 その後、地上に降りて人間の関係者を殺して回っていたんです。復讐を
遂げた時、追って来られていた敖潤閣下と観音に見付かりました。」
天蓬は復讐譚の顛末をそのように結んだ。


二人に発見されたのは、天蓬が全ての報復を済ませて呆然と立ち竦んで
いた時であった。
次の行動が思い付けずにただ立っていた。
放って置けば何時間でもそうしていて、やがて野垂れ死んでいたであろう。
「 天蓬。」 抜き身をそのまま手にぶら下げて立っている天蓬に、観音が呼
び掛けた。
「 大人しく刀を捨てて投降しろ。」
敖潤がはっとして横を見ると、観音も剣を構えている。
敖潤は観音の行く手を塞ぐように前に回って天蓬に駆け寄ると、刀を携え
た手を気にも留めずに天蓬を引き寄せ、耳元に囁いた。
「 もう大丈夫だ。何も案ずることは無い ・・・。」
またもや抱き締められた天蓬が言葉を失っていると、敖潤は後ろに声を
掛けた。
「 この者は何もしません。観世音菩薩。その物騒なものをしまって頂けま
せんか?」
「 よかろう。約束は守るつもりだ。だが、その者の罪は重い。鎖を掛けろ。」
そう言うと観音は鎖の束を敖潤の足元に投げて寄越す。
「 必要ありません。」
「 良いからやれ。そのまま連れ帰ったのでは、警戒され過ぎて却って天蓬
が、迎え入れる者達に酷い目に遭わされてしまうぞ。」
言われて、有り得ることだと考えた敖潤は仕方無くそれに従った。
「 我慢するんだ、天蓬。私がずっと傍に居てやるから。」
天蓬は頷いて、自ら刀を捨てた。
敖潤が枷を着け鎖を掛け終えると、観音が近付いて来て、天蓬の顎に手を
掛けた。
敖潤に言われた剣は一応鞘に収めているが、今度は短刀を握っている。
「 敖潤、ここを持って口を開けさせておけ。」
「 何をなさるおつもりです。」
観音の乱暴な仕草に敖潤が驚いて声を掛けた。
「 何って。舌を落とすんじゃないか。残しておくと自分で噛んで窒息死を
狙う。決め事だろうに。」
顔に手が掛かったかと思うと、急に天蓬の目の前が暗くなった。
敖潤が天蓬の頭を抱え込むようにして身体で庇ってくれている。
「 させません。」
耳元で低く唸るような、しかしはっきりとした拒絶の声が響いた。
「 これ以上天蓬に苦痛を与えることは、もうなさらないで下さい。これまでの
事で既に充分です。されるのなら、私を叩き斬ってからにして頂きたい。」
「 後悔するなよ、敖潤。」 観音が眉を片方だけ上げてニタリと笑った。
「 そ奴をおめおめ死なせたら、お前が責任を取るんだ。それで良いか?」
「 構いません。」
「 だったら、せめてこれを着けさせろ。」
今度は重罪人に施す轡が渡され、敖潤はまたも渋い顔をしたが、一度譲ら
せているだけにそれ以上は無理と考えた。
天蓬から身体を離すと顔を覗き込んで訊いてやる。
「 大丈夫か?」
「 咬ませて下さい。」 天蓬が自分から申し出た。
舌を落とすことにも躊躇いを見せない観音の様子からも、連れ帰られて
処刑されるのだと察しは付いていた。
今更何を着けられても天蓬には何程の事でも無い。
ただ、ここまで庇ってくれた敖潤を裏切れないと感じていた。
天蓬はその時点で、自害することに諦めを着けていたのだった。





「 当然、逮捕され処罰されるのだと思って、言われるままに連れ帰られま
した。捕獲されたという捕えられ方だったし、縛られて轡を噛まされて、引き
摺り戻されたのですから、そりゃ ・・・。」
「 違っていたのか?」 捲簾が訊いた。
「 元の場所に戻され、暖かい寝台に寝かされただけです。何も咎められも
訴えられもしませんでした。手足に枷が掛けられたこと以外は。」
「 許されたということか。」
「 らしいです。その時観音が付いて来られていたのは、どうやらご自身の
手で成敗されようとしての事だったらしいのですが、ボクの怪我がどんな
ものかを知り、敖潤閣下にその時の様子を聞かれて、事件の揉み消しに
回って下さいました。
それまでの間、ボクは敖潤閣下以外の誰にも会わないようにしていました
から、観音もそこまで酷いとは御存じ無かったようで ・・・。」
「 で、情状酌量?」
「 まぁ実際には、敖潤閣下と地上に降りられた時点で閣下が取成して下さ
っていて、そう決めていらしたらしいのですが、許すと言ってしまうと、ボク
が抵抗すると予測して、態と乱暴に捕え、ボクを騙したようでした。」
遠い過去の出来事でありながら、それを語る天蓬の口調に悔しさが滲み
出ていた。
「 お前、許されると知っていたら、大人しく付いて行ったか?」
そう尋ねてみると、天蓬が皮肉な笑い方をした。
「 抵抗したでしょうね、そりゃ。当然に成敗されると思っていたからおめおめ
と戻ったり出来たのでしょう。」
やはりそういうことか、と捲簾は思った。
「 やはりな。それでまた療養か?」
「 今度は鎖付きで。それがどんなものだったかは、貴方も知っていると
思いますよ?捲簾。」
言われて捲簾も薄っすらと笑う。
「 その時の癖を今もここでされていたという訳か。」
「 その時は、もっと広くて明るい部屋ででしたが。・・・ そこで何年か過ごし
たものの、ボクは立ち直り切れませんでした。人に裏切られたことも苦に
なっていましたし、自分のされた行為にも。火傷の方ではなく、その前の ・・・。」
「 ああ、分かっている。」
捲簾はそう答えた。
不特定多数との拷問に等しい輪姦の記憶と、焼け爛れた顔と身体、それに
自身の大量殺人の記憶まで抱えていたのでは、療養は地獄のようなもの
であったろうとは見当が付く。
実際、捲簾が想像するよりも遥かに凄まじい日々を天蓬は過ごしていた。


観音と敖潤に連れ戻されて数日は平和に過ぎた。
連れて来られた場所が元の敖潤の屋敷の同じ部屋であった事には多少
驚いたものの、処刑されるまでの間だけでも楽に過ごさせてやろうと観音
が計らってくれたのだろうと思った天蓬は、特に暴れたり騒いだりもせず、
大人しく過ごしていた。
手足の鎖に寝台に縫い付けられたような格好になっており、轡も外されて
はいなかったが、犯した罪の大きさを思えば、当然の処置だと納得出来た。
舌を落とされていない事も、容赦と温情を与えられたのだと感じている。
しかし、日に三度きちんとした食事が出され、その内容が少量しか食べら
れなくとも精が付くような料理ばかりなのに不信感を持った。
四・五日そんなことが続いた後、堪りかねた天蓬は、食事の世話に現れ、
轡を外してくれた敖潤に、何故こんなものが必要なのかと尋ねてみた。
「 明日観音が来て、秘術を施してくれるそうだ。」
天蓬の火傷は表面に熱の当たったものではなく、焼き鏝で組織を潰されて
深層まで焼かれている。
それを元に戻す秘術を施すために、観音自身にも天蓬にも体力が要るの
だと敖潤は教えた。
「 今更何故でしょう ・・・?」
天蓬が不審そうにすると、敖潤は明日観音に訊いてくれと答えた。
「 お前は治りたいと思わないのか?」
「 もうどうでも良い気がします。痛むのは傷ではありませんし ・・・。」
天蓬の返事を聞いて、敖潤は隣に座り直して身体を引き寄せてくれたが、
囁かれた言葉はやはり、兎に角食べて欲しい、であった。
結局従おうとはしたものの殆ど食べることも出来ず、不安な気持ちのまま、
また轡を咬まされて、元通りに寝かされた。


翌朝観音がやって来て敖潤を追い払ったため、天蓬は事件後初めて観音
と二人になった。
「 難しい術なのだ。一度やると、俺もひと月ほど寝込むことになる。だから
協力しろ。お前の方でも受け入れる気にならないと失敗するんでな。」
施術側もそれほど疲弊すると聞かされて、天蓬は尚更嫌がった。
必要も無ければ、大恩ある観音にそんな負担を強いたくも無い。
腕が千切れんばかりに鎖を引っ張り、轡をかまされた口で呻き声を立てて
必死に抵抗しようとした。
観音は眉を顰めたが、何時ものように怒り出しはせず、天蓬の頭を撫でて
優しく話し掛けた。
「 天蓬 ・・・。お前は明日殺される。建前上不殺生の天界では闇から闇と
いう事だがな。俺にもどうにもしてやれん。せめて生まれ持った元の綺麗
な顔で死なせてやりたいと思うだけだ。」
天蓬は足掻くのを止めた。
「 お前だって悔しいだろう。あんなくずどもにされた顔のままで死ぬのは。」
言われて確かにそうだと思った。
この姿で死にたくはない。
これは悪党どものお遊びで作られた怪物だ。
天蓬は頷いて観音に了承を伝えた。
観音は微笑みながら天蓬の額に手を当てた。
それこそ慈愛の象徴とされる優しげな微笑だったが、何故か観音は鎖も
轡も外さずに、いきなり治療を始めてしまった。
訳は後で思い知った。
最初感じたのは熱である。癒されてゆくということははっきりと分かる。
しかし、その過程はお世辞にも心地良いと言えるものでは無い。
自身の細胞が修復され再形成してゆく感じが伝わって来るのだが、身体中
の表面で一気に起こったその変化は、天蓬に凄まじい苦痛を与えた。
天蓬は繋がれた鎖を引き得るところまで引き、背中を浮かせて上半身を
弓なりに反らせて苦しんだ。
「 泣けよ。こんな時に泣くもんだぞ、普通は。」
観音が言ってくれたが、その時にも、そして今も、天蓬には己に襲い掛かる
苦痛や恐怖に負けて泣く習慣が無かった。


「 ・・・ で、御丁寧に、二度までも騙されたということか。」
内心それで良かったと思っている捲簾の声には、然程同情的な響きは無い。
「 まさか人の生き死にに、そのような嘘を吐かれるとまでは ・・・。」
「 同じパターンじゃないか。」
「 ですが、まだ一度目のが嘘だとはっきり分かっていない時だったのです。」





全てが嘘だと分かったのは、翌日が何も無しに過ぎてしまった時だった。
敖潤が入ってゆくと、天蓬は秘術を施されて元通りの美しさを取り戻した
顔に、この世の終わりでも来たような暗い表情を浮かべて、恨めしそうに
敖潤を見上げていた。
「 そんな顔をしないでくれ。観音に押し切られた上、父上からも観音の邪魔
をするなと念を押されていたのだ。先日の件で私はお前の側にしか立たな
いと思われ、警戒されているらしい。
それでも良い、天蓬。誰に何を言われようが、私はお前に付いてやりたい。」
そう言われてしまうと天蓬には、それ以上敖潤に歯向かう事は出来ない。
事件の後、幾重にも温情を掛けられ、手厚く保護され、命懸けの庇い立て
までされて、親切は身に染みていた。
しかも、その親切が自分が化け物同然の姿であったときにすら、何事も
無かったかのように続いていた。
誰にもぶつけられない悔しさに再び涙が零れた。
「 泣くのも良いかも知れんな。皆そうやって辛い思いを晴らすものだ。」
それでも敖潤は涙を拭いてやるつもりで手を伸ばした。
天蓬に触れた時、敖潤ははっとした。
まるで火を噴くように高い熱を出していた。
慌てて轡を外し、何処か痛むのかと訊いてみる。
「 腕の傷が ・・・。」
まさか、身体はもう治した筈なのに ・・・ と腕を調べてみると、傷の癒えて
いる筈の腕が大きく腫れ上がっていた。
腫れの中心は一番最初に刀を通された位置であったが、傷自体は既に
癒されており、僅かな痕跡さえ残してはいない。
しかし、その何もない場所が高い熱を持ち、大きさが変ってしまう程に腫れ
ていた。
「 痛みはどうなのだ?」
尋ねると、天蓬は気まずそうに答えた。
「 それが ・・・ まるで今刺し通されているかのように痛みます。とても終わ
ってしまった出来事だとは思えないのです。」
「 何時からだ。」
「 火傷の跡を癒された時からです。」
「 何故、その時に教えない?」
まるで今刀を刺し通されているかのように痛んでいながら、その事には泣く
事も、痛みを訴えることもせずに堪えていたという辛抱強さに、今更ながら
呆れ果てたが、天蓬が打ち明けなくなった原因は分かっていた。
二度も騙せば大抵の者は懲りるだろう。
タオルに枕元に用意していた水を含ませて、腫れた腕に宛がってやる。
呼吸を楽にしてやろうと、轡を外したままにしたため、敖潤は見張りの必要
から、その先四六時中、天蓬に付き添うことにした。


この腕の異変はその後数年に亘って続き、一向に治ろうとしなかったが、
長く続くうちに、天蓬自身をも含む関係者の方が異変に慣れてしまった。
次第に腕は腫れ上がらなくなり、熱だけになって回数も減っていったが、
回数はある程度まで減ると、それ以上には減らなくなった。
その頃になると他にも色々と分かってき始めた。
発熱は天蓬が疲れたり緊張すると現れるということ。
周囲が治ったと説得すればするほど悪化すること。
そして、何より仰天だったのは、天蓬にははっきりと傷が見えているらしい
こと。
天蓬の側からすれば、自分に見えている傷を周囲が感じていないことを
仰天で思い知ったとも言える。
だが、当初の腫れ上がり方を敖潤が見ている上に、熱は現実である。
誰も疑ったりはしないのだが、かと言って誰にも治せない。
一番近いのは観音の
「 こりゃあれだな、天蓬の悲鳴みたいなもんだろ。本人が余り不満を言う
方じゃないんで、身体の方が代わりに悲鳴を上げて、熱出して報せてるん
だろ。」 という診立てだと他の者にも思えた。
当の天蓬は回数が減った頃から、しきりに起き上がりたいと言うようになり、
周りを困惑させた。
本来処刑されていても文句の言えない立場だと分かっていて、従っては
いるが、それに代わる罰を受けていると考えたくとも、敖潤は惨たらしい真似
を全くしない。
逆に常に快適に整った環境を用意してくれ、世話を焼いてくれる。
しかもそもそも敖潤との繋がりを考えれば、事件までに数回話した経験が
有るという程度の知り合いでしかなかった。
天蓬は恐縮し切っていて、屋敷を出られないのなら、せめて下働きの雇い
人として置いて欲しいと懇願したが、許されなかった。
それどころか、その申し出の所為で折角鎖が外されるようになっていたの
を取り消され、もう一度枷を嵌められて過ごす事態に陥っていた。
憐れに思った敖潤は、部屋の窓に頑丈な格子を取り付けさせ、ドアを外側
から施錠出来るようにして、部屋の中だけとは言え、再び手足の自由を
与えてやったが、天蓬は落ち込んでゆくばかりだった。





ある日、薬でも変えてみるかと様子を見に訪れた観音は、何時もと違って
天蓬が自分と二人になりたそうな様子を見せることに気付いた。
ちょっと天蓬の身体に確かめたいことがあるから、と断わると、付き添って
いた敖潤は簡単に部屋を出て行った。
「 あいつ ・・・ 未だにお前を脱がせるというと席を外すんだな。お前、まだ
手を付けられていないのか。」
観音は愉快そうに笑ったが、天蓬はそれどころでは無い様子でいる。
「 すまん。で?」
改めて訊いてやろうとすると、天蓬は報復の後、自身が捉えられた際に、
観音に舌を落とされそうになったことを持ち出した。
「 悪かったって!もう言うな。あの時のお前はそうでもしないと、付いて来
なかったろうに!」
観音が煩そうにすると、天蓬はそうではないと言う。
その処置を今ここで、本当にして欲しいというのが天蓬の希望であった。
「 何故そんな馬鹿なことを ・・・?」
言下に拒否しようとしたが、天蓬は相当に思い詰めていた。
「 だから何故だ。」
本気になって訊いてやると、自分の手足を自由にし、轡も外して以来、敖潤
が心配してずっと付き添ってくれているのだと答えて溜息を吐いた。
「 結構なことなんじゃないのか?お前もてっきり敖潤に惚れていると思って
いたが ・・・。」
「 その通りです。あの方は傷付けたくありません。解放して差し上げないと。」
「 ふーん?」
観音が顎に手を掛けて顔を仰向けさせたが、騙して以来、観音に触れられ
たがらなかった天蓬が嫌がらず大人しくしていた。
「 口開けてみろ。」
そう言ってみると、口も開ける。
「 本気か?」
「 ええ。お願い出来ますか?」
観音はゆっくりと首を横に振った。
「 この間からの失礼はお詫びします。ですから ・・・。」
「 天蓬、お前、あんなことさえ無ければ、軍隊を気に入っていたのじゃない
のか?良く似合っていたと俺も内心思っていた。」
天蓬が頷いた時、戸を叩く音がした。
「 観音菩薩、まだ御用は済みませんか?」
敖潤の心配する声が聞こえた。
「 あの声はな、天蓬。俺がお前を取って食っちまうのじゃないかと心配して
やがるのさ。」
話を逸らされた天蓬が首を振る。
「 俺が思うに、敖潤は今のままで仕合せなんじゃないかな。解放しなくても
大丈夫だろ。」
「 それは違います。」
必死に分かって貰おうとする天蓬を無視して、観音は戸口に向かって、入れ
と声を掛けた。
敖潤が戻って来るまでの間に、素早く天蓬の耳元に囁き声を送る。
「 もう少し待て。悪いようにはしない。お前にも敖潤にもだ。」
戻って来た敖潤は天蓬が青い顔をしているのを見て、観音を睨み付けた
が、観音は薬は後で遣いの者に持たせると言い残して席を立った。
「 良く見張っておれ、敖潤。そいつは叛乱を起こし掛けているぞ。」
出て行きがけに、そんな台詞まで残して観音は帰ってしまい、天蓬は取り
残されて呆然とした。





結局、天蓬は更に数年をそのまま過ごすことを強いられたが、その時の
申し出は一応考慮されていたようで、それ以上長く天蓬を閉じ込めては
おけないだろうと判断された。
そこで、天蓬が事件を引き起こす以前に出ていた話がもう一度持ち上がり、
敖潤が、当時他の三軍に比べ小規模で独立せず、雑多な仕事だけをこな
していた西方軍を再編成して率い、天蓬を移籍させて、その下に入れると
いうことになった。
天界軍に四軍が揃い、それぞれの規模が横並びになったのはこの時で
あった。
長く行方不明になっていた天蓬が、戻っていきなり移籍というのもおかしな
話しなのだが、今と同じで天界軍では他軍の情報が余り伝わらなかった。
再び軍籍に戻った天蓬が、要するに今捲簾の見ている通りの天蓬である。
発熱は治らず終いであったが、復帰の折に戦場に出たいと願って、それも
許されていた。
その頃には周囲からも、敖潤の責任となるような馬鹿はやらないだろうと
見做されていたため、簡単に許可が降りたのであった。


「 何故そんな無茶をしたんだろう?何も軍人でなくとも良かったのでは?
今のお前を見ていればそれしか浮かばないが、その当時なら状況を考え
ても他の選択肢を採る方が自然だったのでは?」
捲簾が疑問を差し挟んだ。
「 挫折感 ・・・ で凹んでいると思われていたのでしょう。軍部入りする時、
観音に止められていたのを振り切っての入隊だったこともあって、その先
でしくじったボクは観音にも会わなくなっていましたし ・・・。
では、元の位置に戻そう ・・・ となったようでした。」
「 で、敖潤と共に今の西方軍にやって来たのか。」
「 半年遅れですが。閣下が体制を整えて下さったところに、そっと戻され
ました。熱を出す癖を抱えたままでしたけれどね。」





一通り話し終えたと感じたのだろう、天蓬が力無く笑いながら、捲簾を覗き
込んだ。
「 軽蔑しましたか?」
「 軽蔑って何が?」
「 だから ・・・。いや、いいんです。それより、これで隠していたことは全部
話したと思います。先程の約束を ・・・。」
「 ああ、願い事だな。そうだ、聞いてやらないとな。で?」
天蓬は静かに捲簾を見上げながら、ゆっくりと告げた。
「 今度こそ殺して下さい。お願いします。」
思わず捲簾の身体が引き攣り、動作が止まった。
「 お前は ・・・。」
「 あれから新しく知り合った貴方にまで、こんな話を ・・・。結局逃れられ
ないということなのでしょう。無理も無いと自分でも思います。ボクの殺めた
命の数は半端ではありませんでしたから。・・・ だから、殺して下さい。」
「 それが、お前が俺にする最初の願い事なのか?」
「 ええ、そうです。半分背負ってくれると言うのなら殺して下さい。」
真剣だが優しい響きの声であった。まるで衣服とか宝石を強請るように
天蓬は死を強請った。
その様子に捲簾は仕方なく頷いてやった。
内心、良くぞ薬を使わずにそのまま天蓬に訳を訊いたりしなかった事だと、
今更ながらに冷や汗の出る思いである。
神格であれば大抵の負傷は回復し、一部人間には有り得ない再生能力
をも有する。
だからこそ永遠とも言える命を永らえるのだが、一方で自殺には不向きな
身体であった。
止めを刺されない限り、誰かに見付かり手当てされてしまえば回復してゆく。
天蓬自身が顔をも含む全身に焼き鏝を当てられ、身体の複数箇所を刀で
貫かれながら生き延びてしまった苦い経験を持っていた。
復讐で怨念を晴らすと共にその罪で成敗されることを望んだが、無理矢理
許されて、それも果たせなかった。
だからこその切実な願いであったろう。
話を聞かされた捲簾にもそれは理解出来た。
約束とやらはあとで反故にする気でいたが、取敢えず安心させてやろうと、
「 分かった。だからもう悩むな。」 そう告げた。
「 本当に ・・・?」
天蓬の顔がぱっと明るくなり、捲簾は付き合い始めてから初めて天蓬が
心から笑うと、こんな表情になるのかという顔を知った。
天蓬の髪の毛に指を入れて梳いてやる ・・・ 捲簾の好きな動作であった。
途中、ちらと時計を見て、まだ時間が有ると思った。
「 最後なのなら、もう一度お前と ・・・。良いだろう?」
「 ええ ・・・。」
話をする間中、捲簾に愛撫を受けていた天蓬の身体は寛いでいた。
昨夜情を交わした後でもある。
「 挿れてもいいかな?」
「 そうして下さい ・・・。」
天蓬が背中に手を回し、自分から捲簾を引き寄せた。


初めて聞かされた天蓬の、壮絶で、同情などという感情を抱く余地すら無
い過去の物語に衝撃を受け、興奮し、愛しさが募ってもいた捲簾は、溢れ
出す感情のままに天蓬を抱いた。
天蓬の中で果てた後、身体を少し離して天蓬を見ると、気を失っている。
相手にそこまで無理な負担は掛けさせていない筈なので、恐らく薬の作用
なのだろうと思った。
軽く頬を叩いて名前を呼ぶと、天蓬は小さく呻いて目を開けたが、開いた
瞳は何処も見ていない様子である。
「 天蓬、よく聞け。俺はお前を軽蔑などしていない。」
反応が良く分からない。
どうしても焦点が定まらないらしい目をこちらに向け、口も少し開いている。
「 軽蔑なんぞしていない。聞こえたか?」
天蓬がやっとという動きで頷く。動作が重いらしかった。
「 先程の内容を聞いて感じたのは、ひと月以上拷問が続く中で正気を保ち
続けたお前の意志の強さ。そんなにまでして復讐を遂げたお前の誇りの
高さだけだ。尊敬しているんだ、天蓬。軍だけでなく天界全体でも俺が尊敬
の念を示した相手はお前だけだ。分かったか?」
天蓬は頭 (かぶり) を振ろうとしたが、薬の作用が強く出てきたらしく、
ちょっと頭を捻っただけに終わった。
「 信じろ。お前が俺の唯一尊敬出来る上官だ。良く覚えておけ。これだけ
は忘れてくれるな。」
次第に目を閉じ始めていた天蓬に、最後は揺す振りながら呼び掛けた。
声を掛け終わった時には、天蓬の意識は殆ど無かった。
それでも、口元が焦れったそうに痙攣し、何度かしくじったあと、完全に
意識を失う寸前、天蓬が漸く声を発した。
回らぬ舌でやっとの思いで告げた言葉は、「 約束を ・・・。」 である。
天蓬はそれだけ言うと、もう一度気絶してしまった。
薬の力を借りて端から破ろうとして引き受けた約束に、信じて縋ろうとして
いる天蓬に多少胸が痛んだが、許す訳にはゆかない。
捲簾が覗き込むと、綺麗な寝顔をしている。
叩き起こされ、揺す振られながら怒鳴られた所為か、それとももっと他の
原因からか、目の端に涙を溜めていたのが、目を閉じると押し出されてすう
っと顔を伝った。
白くて肌理の整った美しい顔。
観音が神通力を使って元に戻し、天界でも最上級とされる秘薬を使い癒さ
れた身体。
全てが完璧である筈なのに、本人が己だけに見える傷の後遺症に悩み、
今だに発熱の発作に襲われては、おぞましい過去の記憶を呼び覚まされ、
苦しみ抜いていた。
それでも、狂いもせずに正気のまま自分を眺め続ける ・・・ そんな天蓬が
いじらしくて堪らなかった。
眠ったらしい天蓬に毛布を掛けてやり、また暫くの間、髪を撫でていた。
捲簾は時計を確かめ、念のためにもう暫くしてから風呂場に連れ込もうと
考えていた。





「 目が覚めたか?」
気が付くと捲簾が覗き込んでいた。
一瞬混乱した天蓬が不思議そうに見上げている。
「 覚えていないのか?ほら、コーヒーが苦いと言い出して寝台に戻ろうと
してさ ・・・。」
ああ、と天蓬が相槌を打つが、少々戸惑い気味だ。
抱かれようとした所まで覚えているのだが、その先の記憶が無い。
貴方のしてくれたことを思い出せません、とも言い出しかねて迷っている。
「 抱いたさ。覚えていないんだろう?」
「 ああ ・・・ いえ、感覚は残っています。」
態とに疑わしそうに捲簾が全身を眺め回す。
「 どうだか!」
「 本当に意地悪なんですから ・・・。嘘は吐いていません。感じたとか何とか
じゃ無く、ボクは ・・・ 貴方の暖か味を感じて満足していたことの方が印象
に残るんです。今日みたいな日だけじゃなく前からそうでしたが。」
「 ふーん。」
気の無い返事を返しながら、探るように相手を眺めている。
どうやら本当に何も覚えていない様子であった。
「 ならば良し。では、食事を取るんだ。」
「 え ・・・?」
身体を起こして寝台に座らせる。
「 もう持って来ているから。・・・ さ、箸を持って。何なら俺が口に突っ込んで
やろうか?」
意地悪く睨み付けると、天蓬がぶつぶつ言いながら箸を取った。
「 貴方という人は ・・・。上官に対する敬意も礼儀もあったモンじゃない!」
むくれたように食事を始めた天蓬が、ふっと何かを思い出したように動作を
止めた。
「 済みません、言い過ぎました。貴方はそんな人ではなかった。」
「 うん ・・・?」
「 礼儀はともかく、敬意が無い方はボクの失言です。」
「 そうか。」
そうか、と言われても実の所、天蓬にも何故今さっきそんな気がしたのかが
分からなかった。
考えてみれば、捲簾に敬意を払っていると意思表示された覚えも無く、寧ろ
矢鱈景気良く馬鹿呼ばわりされて来たような気もする。
何故、そんなことを言ってしまったのだろうと訝ったが、自分から言い出して
しまった手前、今更否定も出来ず、ただ、ぼんやりと付け加えた。
「 ・・・ 多分。」


夕方近くになって天蓬は本当に起き上がり、夕飯は手作りするから食って
ゆけと止める捲簾を振り切って外に出た。
手には昨夜帰って来た時に着ていた女性用の着物を持っている。
必然的に着ているものは捲簾のシャツとパンツだったが、上背に然して違い
が無いのでパンツの丈には問題が無い。
ただ、僅かである筈の身長差がシャツの袖丈に出てしまい、袖を幾つか
折り返して着ていた。太さに差が有る分、肩が落ちるらしい。
途中で敖潤のところに立ち寄った。
思いがけず明るい顔付きで現れた天蓬に敖潤は驚いた。
任務の前日此処に現れ、何も言わずに縋り付いてきた部下である。
何か悪いことが起きそうな予感がし、案じていた所であった。
「 報告が遅れてしまいまして ・・・。依頼は無事に果たしました。」
声も何時に無く明るい。
とにかくソファに座れと命じて、一人だけでは姿勢を崩したがらない天蓬の
ために立ち上がって机を離れ、傍に腰掛けた。
「 大丈夫なのか?」
顔を覗き込んでみるが、天蓬は穏やかな微笑みを浮かべており、気分も
良さそうに見えた。
「 平気です。」
どうしても袖口を折られたシャツに視線が行く。
「 そのシャツは ・・・。」
「 捲簾のシャツです。申し訳有りません。だらしなくて。」
「 ずっとあ奴の所にいたのか。」
「 緊張してしまったようで、疲れが出たものですから。つい今しがた起きた
ばかりです。」
「 珍しいことを言うんだな。自分で疲れたと認めるとは。」
「 はぁ ・・・。朝一度起き掛けたのですが、コーヒーの味がすっかり変わって
感じられ、酷い状態だったものですから。」
「 うん ・・・?」
敖潤が怪訝そうな顔をした。
「 過去にも一度だけですが、そこまでおかしく感じたことがあります。
その後も気絶してしまい何も思い出せなかった経験があって、それで起き
るのは危ないのかな ・・・ と、自重したのですが、それで良かったようで、
やはり今日もその直後に気を失ってしまいました。どうも自分は弱ると味覚
に来てしまうようです ・・・。」
敖潤は途中ではっとして、表情を強張らせた。
「 過去に ・・・?何時の ・・・。」
前回のどの経験かを問うてみる。
「 閣下のお屋敷でお世話になっていた頃のことです。一口飲んでぱっと
その記憶が蘇ったほど、凄まじい味に感じたものですから ・・・。」
「 凄まじく苦いコーヒーか ・・・。」
敖潤は眉を顰めて何か考え込んでいた。
あいつめ!と心の中で舌打ちしたが、天蓬には到底教えられない内容だ。
「 で、気分はどうなのだ?今。」
「 長く寝た所為かすっきりしています。身体も軽くなりました。」
「 ふーん?」
「 とにかく報告をと思いまして。それとこの着物ですが、どう致しましょう。
閣下から観世音菩薩に返して戴くのか、それとも ・・・。」
天蓬はのんびりとそんなことを訊いてくる。何も覚えていないらしい。
仕方無く敖潤もその話題に従った。
「 自分で届けに行け。観音もそれを期待して待ってくれているだろうし。」
「 はぁ ・・・。」
「 実家に帰る様なものだろうに。」
「 いえ、あそこは ・・・ 戻る気の無い場所です。」
「 まだ顔向け出来んとか考えているのか。仕方の無い奴だ。・・・ 良いから
明日にでも行って来い。勤務時間内で良いから。」
「 でも、それは ・・・。」
天蓬が躊躇う。
「 大丈夫なんだろう?内には頼もしい馬鹿大将も控えて居るんだし。」
「 馬鹿大将 ・・・ ですか。」
「 そうだ、その馬鹿大将に伝言を頼みたいんだが良いか?」
「 はい。何と?」
「 観音に貰った薬は後幾つ残っているのかを、私が知りたがっていると伝
えておいてくれ。」
多分これで伝わる筈だった。どういう経緯でかは知らないが、敖潤は捲簾
が、観音を通してあの薬を手に入れていると踏んでいた。
「 ああ、あの傷薬のことですか。未だ一度も使っていないようですから5回
分だと思いますが。」
「 あいつの口から数を聞きたいのだ。そう言ってくれれば分かる。」
「 そうなのですか。承知しました。」
何の屈託も無しに、天蓬はそう答えた。
「 まぁ、お前が元気そうで良かった。もう行ってもいいぞ。」
「では、失礼します。」
最後まで特に何も疑うこともなく、天蓬は出て行ってしまった。
敖潤もそのことにだけは安堵していた。
捲簾のしたことには腹が立ったが、薬は上手く使ったようで、天蓬に悪影響
が出ていなさそうなのが救いに思えた。





答えは翌日捲簾が自分で告げに来た。
「 ほらよ、残りの薬だ。傷薬ではない方のな。これであんたも安心だろう。」
敖潤の悪い予感は当たっていた。
出来れば捲簾からは、何の話だ、とでもいう返事が聞きたいと思っていた
のだが、今更どうにもならない。
「 皮肉は通じるらしいな。ま、天蓬が話していて飽きないのだから、馬鹿
ではないのだろうが。」
「 最初に受け取ったのが5包。一つ使って残りは4包だ。」
「 預かっておく。元々貴様に与えられたものだし、取り上げる権利は無い
のだろうが、簡単に使って見せおって。危なくて仕様がない。要るときには、
私に言いに来い。」
育ちの良い敖潤には、相手が部下と言えども、私物は取り上げられない
様子だったが、取りに来いと言われて取りに行ける代物でもないだろう。
捲簾には回りくどい奴だとしか思えなかったが、残りの薬については伝言
を聞いた時点で諦めを着けていた。
しかし、簡単に見透かされた原因だけは確かめずにはおけない。
「 ところで ・・・。あんた、何故分かった?天蓬自身には被害を訴えること
すら出来なかった筈だが?」
「 天蓬が苦いコーヒーを飲んで気絶したと言ったからだ。」
「 何故それだけで分かるか、と聞いている。」
「 その手の記憶操作の秘薬は竜神のものだからだ。これは元々私の家で
作られたものだ。」
「 そうなのか?」
「 観音は傷薬とか病の薬しか作らん。父上から観音に贈られたものだ。」
「 そりゃまた失礼を。俺はまた、あんたも使った経験が有るのかと思った。
同じ天蓬に対してな。同一人物が同じ感想でも漏らして気付いたのかと
考えたんだが ・・・。」
出所が敖潤の実家とあっては、使ったことが有ると告白しているようなもの
ではないか。そう思っている捲簾にとって、これは当て付けの揶揄である。
「 失せろ、用は済んだ。」
敖潤が不機嫌に捲簾を追い払った。
捲簾は納得した顔をして、悠々と部屋を出て行ってしまった。
実の所図星である。
天蓬を回収した際、余りの惨たらしさに、通常の手段では状況を聞き出す
気になれず、秘薬を頼ったことがあった。
秘薬のお陰でそれ以上天蓬を苦しめること無しに、治療と事件の揉み消し
に必要な情報を手に入れた上、大量殺戮と呼ばれても仕方の無いような
事件を引き起こし、観音が自らの手で成敗すると言い出したのを説得する
ことさえ出来た。
もし、その薬を使わなかったとしたら、天蓬は言い訳せずに黙って成敗され
たに違いなかったのだから、使った値打ちというものは大いにあったろう。
しかし、何故今頃になって観音が同じものを捲簾に持たせたのか納得が
ゆかない。
あ奴にそれだけの値打ちなどあるのだろうか、と敖潤は疑問に思った。
それとも、捲簾が天蓬の過去に興味を持った場合、薬を使わずに天蓬に
その話を強請り、打ち明けた記憶を持ったままの天蓬が後々捲簾の視線
に苦しむと踏んで先回りしてくれたのだろうか?
大将位を得てからも粗野な部分を残し、己とは全く気性の違う捲簾は、天蓬
が心を開きかけているという以外、敖潤には評価のし様の無い男だ。
敖潤は人を良く見抜く観音が、どう考えて薬を持たせたのか知りたいと思った。





天蓬が軍を出ようとした時、部下の若い士官の一人が声を掛けた。
どうやら仲間を代表して声を掛けたらしく、天蓬の軍服での外出を危ぶん
でいる様子を一々 「 我々は 」 という言葉で表現し、自分が供をすると言い
張った。
制服であり、対外的には正装ともなり得る軍服を、己だけが禁じられる理由
が理解出来ず、思わず問い掛けた天蓬に、士官は宥めるように言った。
「 我々は貴方を存じています。西方軍のトップであることも、お強いという
ことも。しかし、外に出られてはそれを知らない者ばかりです。そういう者
には多分その ・・・ その軍服をお召しになられていても、冗談で着ておられ
るとしか思えないかと。となると、襲われる機会が多いとも思います。」
「 冗談で ・・・ って ・・・。」 天蓬は余りの言い条に呆れ果てた。
「 気を悪くなさらないで下さい。襲われる回数が多くなれば、どのような剛の
者にとっても危険が増すということですので。」
一体どの位の兵士がそう考えているのか、と不安になった天蓬が尋ねて
みると、部下は当然のことのように、概ね全員がそうだろうと言い放った。
そう言われると、つい下級兵士たちとも雑談をして過ごすことの多い捲簾が、
そういう噂をしょっちゅう聞かされて、何と思っているのかが知りたくなる。
浅ましいかとも思ったが、訊いてみると、
「 大将が?大将はそういう話は寧ろお嫌いでしょう。」
と、あっさりした返答が返って来た。
「 嫌い?」
部下は、捲簾がその手の話には気難しい人物だと話し、例え後で自分で
追い掛けて行くときでも、自分達には、「 要らん、天蓬は自分で何とでも
出来る 」 と仰るんです、と苦笑した。
「 何なんでしょうね。」
「 心配なさっておいでなのでしょうが、御自身が手を貸すことで、元帥を
見縊らせたくはない、と思い詰めておられるのでしょう。
自分には杞憂だと思えるのですが。庇われようが心配されようが、ここまで
来たら最早、貴方の実力を疑う者など無いでしょう。」
「 何だか ・・・。」
突然、天蓬が考え込むように遠くを見るような目をし、ぼそりと呟いた。
「 お気に障りましたか。申し訳有りません。自分はべらべらと喋り過ぎる
ようです。」
「 いえ ・・・ 何だか以前にもそう言われたような ・・・。同じ事を二度聞いて
いる気がして ・・・。」
「 どの言葉かに聞き覚えが ・・・?」
「 うーん、言葉と言うより、捲簾の行動ですかね。以前にも聞いたような気
がします。」
昨日といい今日といい、何かを思い出し掛けては寸前に逃し、捕まえ損ね
てしまう日だと感じていた。
「 まぁあの方は何時だって本当にそうですから、以前にも誰かがお耳に
入れたのでしょう。」
ちょっと違っている感じなんだがな、と思いながらも、それ以上掘り下げる
ような内容でもなし、天蓬はただ頷いた。
供をする必要について話していた筈が、話が捲簾にまで及んで長くなり、
何時の間にか二人は観音の屋敷の前まで来ていた。
「 天蓬様 ・・・ 。」
表で何かをしていた召使の一人が目敏く天蓬を見付け、駆け寄って来る。
「 お帰りなさいまし。」
天蓬は、またもやギョッとしている士官に苦笑いを向けると、「 冗談だから。」
と声を掛け、従者に向き直って取次ぎを請うた。
「 それが ・・・ 予め菩薩様からお取次ぎしないようにと止められておりまして。」
思い掛けず、連れない返事が返された。
「 何かお怒りでしょうか?」
「 いえ。取り次ぐな。自分の実家だから、来たら自分で上がって来させろ。
・・・ だそうです。申し訳ありません。」
案の定、士官が益々怪訝そうな顔をした。
それでも、天蓬と敖潤の躾が行き届いている所為かその場で言葉にする
ことはしない。
ただ、「 ここで待ちます。」 とだけ言い、門の近くに塀を背にして立った。





部屋に入った天蓬を観音がニヤリと笑って出迎えた。
「 入れたろう?やりゃ出来るじゃねえか?」
「 冗談が過ぎます。観世音菩薩。後で部下に言い訳しなくてはならなく
なりました。」
観音は天蓬の正直過ぎる感想に呆れた顔をして見せたが、強ち冗談と
いう訳でもなかっただけに、そう正直に言い返されたのでは面白くない。
その所為か、その日の観音の言葉には、何時もに増して嫌味が多く混じ
った。
「 言い訳なんぞ要るものか。ここから軍に入隊したのだと教えてやれ。
それとも今直ぐ軍人など辞めて帰ってくるか?お前に良い仕事を紹介して
やるぞ。」
「 結構です。」
「 そうか?まぁ、新しい恋人も出来たばかりだし、敖潤も居るし、所詮お前
には無理な相談か。」
「 そういう意味ではなくて ・・・。これ以上の御迷惑を掛けずにやってゆける
自分の仕事が欲しかったのです。」
「 何を偉そうに。給料も貰っていない癖に。」
「 給料 ・・・ とは?」
「 ほら見ろ、言葉さえ知らない。」
むっとした天蓬であったが、相手が上級神とあってはそれ以上逆らえない。
話題を逸らすように、本題である着物を差し出して観音に返そうとした。
「 お前の体格に合わせて作ってあるので返されてもなぁ ・・・。お前が貰って
おけ。あの姫君の親父が作らせたもんだが、姫には少々大き過ぎるだろう。
俺も返せとは言われていない。」
「 女性用です。」
「 仕立て直せよ。ああ、そうだ。金を持ってないんだろう?小遣いやろうか?」
子供時代に引き取った天蓬が、一番嫌った言葉を面白がって持ち出した。
幼い癖に気遣いが強く、周囲が望む以上の自制をする姿が寧ろ痛々しい
気のする子供であったのを思い出す。
観音の方から折に付け水を向けてみたが、それでも首を縦に振らない小さ
な頑固者であった。
「 お金ならあります。」
その頃と大して変わらぬ答えしか返さぬ天蓬に、やれやれと思う。
「 お前にか?」
「 他軍の作戦にも関わることがありますので、そんな時とか、戦功の大き
かった時の報奨金とか、手渡されるものをとってあります。
軍に居れば、生活に必要な殆どが支給され、時々本代を支払い、偶に部下
達に奢るくらいしか使い道がありませんから。」
「 ふーん?」
どういう生活なんだと思ったが、顔には出さず、気の無い返事をした。
「 だったら、それで仕立て直せ。」
「 衣服は充分に持っています。」
天蓬の返事には、子供時代と同じように欲も得も無い。
素っ気無い奴 ・・・ 憎からず思って来た天蓬に無下にされた気がして、観音
はつい、これだけは天蓬が見逃さないと分かっている言葉を口にした。
怒ってはいないが、天蓬が感情を表に出すのを見てみたい気分であった。
「 敖潤か。あいつのやることときたら ・・・。どうせお前に何もさせずに着替
えばかりさせて、眺めて喜んでいるのだろう。」
期待通りの答えが返って来た。
「 観世音菩薩 ・・・ ボクは仕事はちゃんとこなしています。それに、ボクは
兎も角、敖潤閣下をそのように言われるのは幾ら貴方でも ・・・。」
観音の口尻が上がり、人を食ったような笑みが洩れた。
「 怒るな。何もさせないというのは仕事のことじゃない。あいつ自身の要求
の方だ。品行方正だって褒めてるんだよ。ま、多少やっかみもあるがな。
本当はお前をここに置いておいて、俺様がそうしてやるつもりだったんだが。
お前は帰って来ないばかりか服一枚贈らせんし、そりゃ嫌味の一つも言い
たくなるだろうよ。」
「 いえ ・・・ それは ・・・。」
「 今からでも何か強請れよ。折角来たんだし偶には良いだろうが、うん?」
顔を近寄せて迫る観音に圧倒され、天蓬はつい言ってしまった。
「 あの ・・・ 何かと仰るなら薬を ・・・。」
「 うん?薬?んなもんは贈り物とは言わんぞ。でもお前 ・・・。何処か痛む
のか?また、腕の傷か?」
「 ああ、いえ ・・・。捲簾が頂いた傷薬のことです。何故か敖潤閣下がその
ことを知っておられて、捲簾にあと幾つ持っているかとか尋ねられたもの
ですから。閣下もお入用なのかと思って。」
ほほう ・・・?と観音が内心ほくそ笑む。
もう気付きやがったのか、敖潤は。
こいつは面白いことになって来たじゃないか、と思ったが、天蓬には教えず、
傷薬の話をしてやることに決めた。
「 いや、敖潤には要らない。竜王と俺は懇意でな。俺は竜王に傷薬や病の
薬を贈り、竜王からは時々魔法のような薬を受け取る。」
「 では、閣下は傷薬はお持ちなのでしょうか?」
「 だろ?お前も使わせてもらっていたろうに。捲簾に持たせたくないのは、
そんなものが有ると思うと無茶をし過ぎるからだろう?どうせ治ると思って
いれば、誰もが皆、大胆になり過ぎるからな。だが致命傷を負えば我々も
死ぬしな。」
成る程、と天蓬にも思えた。確かに捲簾には普段から無謀なことをする
嫌いがある。何だかんだ言って敖潤も捲簾を大事に思ってくれているの
だろう。
「 そうかも知れません ・・・。」
「 お前はどうなんだ?敖潤に熱冷ましを届けちゃいるが、まだ続いている
のか?」
相変わらず自分を構い付けない天蓬には、この辺りの状況は態々聞くしか
ない。それが焦れったくもあり、目を掛けている理由でもあった。
「 ええ ・・・ 治りません。」
「 薬を変えてみるか?新しいのを作ったんだ。効くかも知れんぞ?」
「 新しい薬 ・・・?」
「 ああ。試作品だ。贈り物とは言えんがついでだ。持って帰れ。ええと確か。」
観音がそこいら辺の引き出しを開けてあちこち探し回る。
捲簾が見ていたなら、天蓬の癖が誰に似たのかを知った筈だった。
暫くして目的の薬を見付けると、小袋に移して天蓬に持たせた。
「 ほら、これを持って帰って敖潤に渡しておけ。それともこの間の捲簾が
お前の薬を管理しているのか?」
「 自分で飲めます。大丈夫です。」
「 ま、効き目の方は分からんがな。お前の症状は難しいんだ。・・・ おや?」
観音は閉めようとした抽斗に別の薬を発見して目を細めた。
「 これは ・・・。こちらなら絶対効くぞ。効果は実証済みの太り薬。分けてや
ろうか?」
「 結構です!」


結局、散々皮肉られた後、屋敷を辞する段になって、一応天蓬の方から
詫びを入れた。
「 申し訳有りませんでした。色々言って頂いていることが有り難い事だとは
分かっているのですが ・・・ その ・・・。」
観音は何事も無かったかのように鷹揚に頷いた。
「 分かっているから謝るな。そういうお前だと知っているから贔屓にしたくも
なるんだし。」
「 言い過ぎた事にもお詫びを ・・・。」
「 それも良い。お前の前で敖潤を揶揄することは誰にも出来んのだろう。
ああ、そうだ。敖潤に心配ばかりするなと言っておけ。捲簾も馬鹿ではない
とな。口の利き方は兎も角、節度は弁えているらしいと。」
「 分かりました。」
「 さっきやった薬は別に贈り物と言うほどじゃないから、何か欲しい物でも
出来たら何時でも言いに来い。それと、薬は敖潤か捲簾に渡しておけ。
失くさないうちにな。」
これにもかなりむっとしたが、天蓬はただ、はいと返事をした。
「 では、おいとま致します。」
「 ああ。何時でも戻って来て良いぞ。」
戻るという言葉に少々の余計な力を込めて、観音は天蓬に退出を許した。
痩せ我慢の強い大人びた子供が、自制が強過ぎる青年になっただけの観
もあるが、それでも天蓬は一人前になったのだと思うと、大したこともして
やれぬまま軍に送り出し、一度戻る機会があったにも関わらず、再度送り
帰してしまったことに一抹の寂しさと後悔を感じていた。





部下は表の塀に凭れて待ってくれていた。
「 済みました。」
「 お早かったのですね。おや、それは?」
行きがけに持っていた荷物をそのまま持っていることを問われた。
「 貰いました。どうしようもない品ですが。」
「 そうですか。」
「 さっきの遣り取りですが ・・・。あれは観音一流の性質の悪い冗談です。
真に受けないで下さい。」
「 はぁ ・・・。」
どうやら疑っているような返事であった。
そこへ更に話を複雑にする存在が現れ、声を掛けて来た。
金蝉が後ろから近付いて来るのを認めて、天蓬は内心ぞっとした。
部下も気付いて、「 これは ・・・ 金蝉童子様 ・・・。」 と挨拶している。
「 うむ。」 生返事だけをして、金蝉はさっさと天蓬と向かい合った。
「 お前が今日辺り帰ってくると聞いたんでな。」
「 やって来る ・・・ です、金蝉。」
部下の視線を気にして、天蓬は訂正したが、金蝉はお構い無しに続けた。
「 話があるんだが、天蓬。」
「 どのような?」
「 ここでは一寸 ・・・。」
部下が気を利かせて、先に帰ります、と言ってくれた。
仕方無く、勤務時間中なので帰り道に話して欲しいと頼むと、金蝉はそれ
で良いと答えた。
部下は足速やに話の聞き取れぬ先まで歩いて行ってしまった。
「 それで?」
自分で呼び止めておいて、中々切り出せず、暫くの間ただ並んで歩いて
いた金蝉に天蓬が促した。
「 俺はつまり ・・・ お前が敖潤に惚れて敖潤とその ・・・。」
そんな話か、と思ったが、特に隠し立てしているという程のことでも無かった。
この手の話は敖潤が嫌がらないので、天蓬も否定しない。
「 実際にはそうではないのですが、まぁそれでも良いと思って来ました。」
だが、金蝉が問題にしているのはそのことでは無かったらしい。
「 そうなんだろうなぁ ・・・。」 と溜息を吐き、
「 では、何故捲簾などという男と付き合っている?」 結局そういうことを言う。
「 金蝉 ・・・ 貴方は ・・・。」 天蓬が非難の視線を向けた。
「 捲簾は貴方の思っているような粗野なばかりの男ではありません。
毎日をガヤガヤと過ごすのに付き合いやすい人なので一緒に居ますが。」
「 いや、捲簾が野蛮だとか言いたいのではなくて ・・・。つまり ・・・。」
「 また、つまりですか?」
「 ああ、いや。つまりだな、俺ではどうしてもいかんのか?」
「 え ・・・?」
予想もしない方向に向かった話に天蓬は唖然とした。
見れば金蝉は本気だという顔をして、天蓬を真剣に見詰めている。
天蓬は立ち止まると、煙草を出して火を点けた。
「 訊かないでくれますか?」
「 悪かった。」
言い出すことにさえ躊躇いのあった金蝉は、一言言われただけで顔を赤ら
めて俯いてしまった。
天蓬も言い方が悪かったと気付き、煙草を大きく一息吸い込むと、残りの
火をとっとと消して、改めて金蝉に向き直った。
「 貴方を非難しているのじゃなくて ・・・。分からないんです。ボクにも。」
「 うん?」
「 正直、誰が好きなのか嫌いなのかすら分かっていません。敖潤閣下を
慕っているのだけは確かです。閣下がいらっしゃらなければ、今頃ボクは
ここにいて貴方と話していたりしません。」
「 命の恩人だからか?」
肝心なことからは遠ざけられていた金蝉だったが、天蓬が大怪我をしたと
だけは聞かされて知っていた。
「 ええ。命だけでなく、気持ちも何もかも。でも、愛しているのかどうかは分
りません。捲簾も同じです。居れば楽しい人ですが、愛してはいないと思い
ます。それどころか、ボクは ・・・。」
天蓬は苦しげである。
「 二度と誰かを愛せるのかどうかすら、分からないんです。」
「 お前 ・・・。」
「 二人の方がボクよりボクの気持ちに詳しいらしくて、閣下は日々の生活を
捲簾とすることを認めて下さり、捲簾は重大な事件があったり、ボクが怪我
をすると閣下の所へ送り届けてくれるんです。二人の思い遣りの間で右往
左往しているんですよね、ボクは。」
幼馴染で気心の知れた金蝉に、天蓬は本音に近い気持ちを伝えた。
打ち明ける態度と顔付きを見ていれば、それは相手にもそうと分かる。
「 そんななのか?」
「 ええ、とても貴方を加えたいような生活ではありません。」
「 俺の知る限り、お前はそういう奴ではないが。」
「 あの怪我と療養期間以来、変わってしまいましたから。」
変わっていない。醸し出す雰囲気は流石に昔とは違えていたが、内面は
何も変わってはいない。
変われないから苦しんでいるのだろうに、としか思えなかった。
天蓬は初めて金蝉に紹介された子供時代の純粋さを、何時までも保ち続
けているのだろう。
― 違う ・・・ ― 金蝉は言おうとした。
「 金蝉 ・・・ ボクは誰も仕合せに出来ません。貴方には悩まないで欲しい
んです。ボクはその ・・・ 厄病神ですから。」
「 天蓬 ・・・。」
何時かそれがどんな怪我で、今どうなっているのかを知りたいと思った。
お前を助けてやりたいんだ、とも伝えてみたかった。
しかし、観音や敖潤の秘密めいた対応を見聞きして、安易にそうは言い出
せないことも金蝉は知っていた。
「 済みません。やはり部下と一緒に帰ります。何だか代表で来たみたいな
人なので、離れてしまうと立場が無いでしょうし。」
天蓬は金蝉を置いて走り出そうとしている。
「 おい!」
金蝉がまだ何か言いたそうに呼び止めようとした。
「 今言ったことは本当ですから。答えが有るのならボクが知りたい位です。」
振り向かぬまま、それだけ付け加えると、天蓬は去って行った。
あれでも真剣に取り合ってくれてはいたのだろう、と金蝉にも分かった。
天蓬がずっと先まで行っていた若い士官に追い付き、話しているのが見え
たが、程なく二人は並んで帰途に着いたようだった。





深い溜息を吐きながら、観音の屋敷に引き返し、観音に会わずに竹林の
東屋に設えられたベンチに腰掛けた。
天蓬が屋敷を出て行って以来、考え事をしたい時に金蝉は時々その場所
を利用していた。
周囲を竹林に囲まれた静かな場所。
幼い日 ― 遥か遠い昔であるが ― 天蓬が良くそこに腰掛けて本を読んで
いるのを、何時も何処か遠くの物陰から眺めて暮らしていた。
天蓬は美しく賢く、年上の金蝉の方から強い憧れを持ったが、声を掛けて
も、自分に与えられたものを分けてやろうとしても、常に丁寧に断わって来る
奴だった。
観音が、その振る舞いが金蝉より余程優雅で貴族的だと、よく誉めたものだ
ったが、その言葉を少しも信じようとせず、矢鱈に自制が利いて、生家が没落
していることを弁え、地味に過ごしていた天蓬は読書くらいしか趣味を持た
ないようにしていたようだ。
その態度に凛とした美しさを感じ、益々憧れはしたものの、親密にはなれず
終いで、天蓬は青年期に差し掛かると、とっとと軍隊入りしてしまった。
余程自分自身の地位と家が欲しかったのだろうと思い、金蝉はただ天蓬の
出世を待った。
地位が釣り合いさえすれば、今度こそ付き合ってくれると信じていた。
期待通り、才能を発揮し始めた天蓬の出世は早く、瞬く間に上級士官と呼
ばれる身分に駆け上がっていった。
一度会いに行きたいと思っていた矢先、天蓬が行方不明になったと聞かさ
れ、その後発見されたとは教えられたものの、人にも見せられぬ大怪我を
負っていたらしく、観音の屋敷にも一切姿を見せなくなった。
会えなくなった不満と大怪我とやらへの心配から、観音に強引に近況を聞き
出した金蝉は、軍務どころか通常の生活も出来なくなった天蓬が、敖潤に
引き取られて行ったと知って落胆した。
その後は、観音と竜王、敖潤の秘密めいた庇い立てに阻まれ、とても会いた
いなどと、浮わ付いたことは言い出せなかった。
何年もの歳月を経たある日、突然再編成された西方軍が立ち上がり、天蓬
が元帥として移籍したという噂に、試しに軍に出掛けてみると、拍子抜けする
ほど簡単に天蓬の私室に通され、まさかと思った天蓬に会うことが出来た。
しかし、儚げな容姿が相変わらずであったにも関わらず、天蓬は見違える
ほど大人の男に変わり、敖潤の愛人だという噂の只中にいるではないか。
金蝉は戸惑ったが、それでも諦め切れずにその後も度々西方軍を訪れた。
何度か訪ねるうちに、噂は噂でしかなく、敖潤は天蓬の慕っている上司で
しかないことを知った。
また、怪我の後、人を遠ざけるようにして暮らしていたため、気難しくなった
様に感じたのも間違いで、一歩踏み込んでみると、儚げで脆そうな天蓬が
昔のままにそこに居た。
変わっていない ・・・ と金蝉は感心したものだ。
それどころか、複雑な表情を加えて益々美貌を冴え渡らせていた天蓬に
惚れ直して戻って来る始末であった。
とは言うものの、どうしてもそれ以上には踏み込めなかった。
天蓬が敖潤にしか気を許していないと気付くのに、そう暇は掛からない。
手を伸ばせば届く距離でにこやかに微笑んでいながら、天蓬は遠かった。
怪我を機会に観音や自分の所へ寄り付かなくなった天蓬が、同時期に人
も愛せなくなったのだろうとは見当を付けていたものの、納得出来る訳も
無く、悶々とする日々が続いた。


そして ・・・。最近になって、天蓬が捲簾にもある程度気を許していると知っ
て、全く新たに出合った捲簾に出来るのであれば自分にも、と思い始めて
いたのである。
天蓬の恋愛観はよく分からなかった。
女性には興味が無さそうだったが、男性に有るとも聞いた覚えが無い。
ましてや二人と付き合っているらしいというのでは、不可思議としか言い様
が無い。
天蓬の律儀な性格や優しさを考えれば、二股は有り得なかった。
今日天蓬に会って、どうやら立ち直る前に二人の男から愛され労 (いた)
わられて、そのどちらにも応えられず、難儀しているように思えて来た。
― そうか、分からないでいて、二人に引き摺られていたのか。 ―
諦めろという示唆の方は無視して、金蝉は都合の良い答えだけを思い出し
ていた。
これからは、もっと頻繁に軍に出入りしてみようか、とも考え始めている。


風を感じて顔を上げた金蝉に、向かい側のもう一つのベンチに、腰掛けて
本を読んでいる天蓬の姿が見えたような気がした。
艶のある黒髪を風に乱される度、細い指を差し込んでは耳の後ろに掛け、
また書物に目を戻していた、見慣れた天蓬の姿がそこにあった。
― お前は変わっていない。何時までも俺を惹きつけて止まない。―
想いの中の天蓬がこちらを振り向き、
「 困った人ですね、金蝉。ボク達はもう、何も考えずに笑っていられる子供
ではないんですよ。」
そう言いながら、今より少々幼い面立ちに柔らかな微笑みを浮かべていた。

( 完 )






















外伝2巻 口絵 クリックして下さい♪
   ―― 傷 跡 ――

   2007/11/24
   天蓬心理分析 ( 独自解釈 ) 実験中
   written by Nachan

   無断転載・引用は固くお断りします。

   ブログへのリンク
   http://akira1.blog.shinobi.jp/

   素材提供:Heaven's Garden
   http://heaven.vis.ne.jp/










NOTE :

一応、これまでの天蓬の謎の部分の解答編です。

歪んだ話を書いていますね、私。内容は大きく変えていますが、元ネタは、
1989年の 「 東京女子高生監禁・コンクリート詰め殺人事件 」 です。
この事件を知った時には心の底からぞっとしました。
親兄弟も知り人も居らず、自身を陵辱し、嘲笑い、罵る者たちだけが取
り囲む中で死んでゆく気持ちというものは、どれほど口惜しかったろう、
と思ったものですから。

しかし、人間はその犯人以上に残酷になれるということを後で知りました。
その後、某産業経済系新聞に、被害者を徹底的に罵り、加害少年側を
あれこれ弁護する声が毎日紹介され続けたからです。
犯されているのだから、楽しんでいた 「 はず 」 だ、としか考えられず、
人間の死を、被害者を卑しめることによって、「 人の死では無かった 」
と、言い放つ人間のいることに初めて気付きました。