―― 傷 跡 ――

        前編









調練を終えた捲簾が兵営に戻ると、人の往来はあるのに話し声が聞こえず、
妙に静かで薄気味が悪いくらいだった。
互いに話はしているようなのだが、声を潜め合っている様子である。
元々東方軍時代に比べれば、トップ二人があの敖潤と天蓬の取り合わせ
とあって、戦闘時以外荒くれたところの無い軍隊だと思ってはいたが、それ
にしても、これではちょっとゆき過ぎている。
行儀が良いのを通り越して、まるでお通夜だ。
通り掛った若い士官を捕まえて、事情を尋ねてみると、天蓬元帥の執務室
に上級神の一人が尋ねて来ているので、皆が遠慮しているのだと教えられた。
「 上級神?」
地上の人間までもが単に 「 天界人 」 とは呼ばず、「 神 」 と呼んで信仰の
対象にしたりする特別な存在。
その一人が軍人を呼び出すのではなく、来ているとはどういうことなのか?
捲簾は訝った。
「 金蝉童子様ですよ。天蓬元帥の所に。・・・ どういう御関係かは存じませ
んが、たまにお見えになりますし、一度などは掃除なさっているお姿を拝見
したことさえ ・・・。」
「 いやそりゃ ・・・。あの部屋の惨状を目にすりゃ、釈迦でも掃除したくなる
かも知れんが ・・・。しかし、金蝉って名前、どこかで聞いたような ・・・。」
捲簾が考え込んでいると、士官が答えを告げてくれた。
「 観音菩薩様の甥子様の金蝉様です。」
「 あ ・・・?」
言われて捲簾は、天蓬に聞いたことを思い出した。
観音が敖潤の父王と懇意で、敖潤は観音の要請で西方軍に来たのだと。
天蓬は金蝉の家庭教師をしていた関係で観音と面識があるといい、その
コネで問題が起きた時に、わざわざ先に敖潤を呼び寄せて西方軍の体制
を整えてから天蓬を引き取ったという話であったから、余程大切にされて
いたに違いなかった。
内実は兎も角、敖潤も対外的には天蓬を弟だとまで言って紹介している
ようだし、捲簾には理解しきれない繋がりを彼らは保っているように思えた。
捲簾が士官から離れて廊下を進み、天蓬の執務室の前に差し掛かった時、
丁度、金蝉が用を終えて部屋を辞する所であった。
天蓬が戸口まで送り出している。
「 では金蝉、報告は敖潤閣下に許可を頂いてからということで ・・・。」
「 済まないな。本来敖潤殿に頼むべきなのだろうが、あの男は苦手だ。」
「 ボクからお願いしておきますから良いですよ?貴方がどうして嫌われる
のかは分かりませんが。・・・ 本当に優しい方なのに。」
天蓬が微笑みながら答えているのが、捲簾には可笑しかった。
ああいうのは普通、優しい方とは言わんぞ天蓬。優しいのはお前にだけだ。
捲簾はそう思ったが、それは金蝉にも同じであったらしく、金蝉も顔を顰め
て言い返していた。
「 あの強面の堅物の何処に優しさを感じろと言うんだ。」 と反論している。
その時、天蓬が捲簾に気付いて手招きした。
「 捲簾、丁度良かった。金蝉とは初めてでしたよね。金蝉、この男が西方軍
の新しい大将です。捲簾と言います。」
そんなに簡単に上級神なんかに紹介しないでくれ、と心の中で思ったが、
仕方無く、その、引き締まらないまま無駄に体格が良く、適度に顔立ちだけ
が整った目付きの悪い青年に近付いた。
「 そうか。」
しかし金蝉は捲簾を一瞥しただけで元の方を向き、「 ではな ・・・。」 と直ぐ
立ち去ってしまった。
「 貴方に紹介させませんでしたね。相変わらず人見知りが強い。」
天蓬は残念そうである。
「 普通なんじゃないのか?大将クラスでああいうのとのお付合いは無理だ
し、元帥位のお前ですら、たかが軍人と言って口も利かんお偉いさんも
居る。まして、軍服の止め具を外して着込んでる奴なんかとは ・・・。」
「 ボクはもっと酷いですが ・・・。第一この部屋に入って来れる根性がある
人なのに ・・・。」
「 え?お前まさか ・・・。」
捲簾が素早くドアの内側を覗いて唖然とした。
「 お前 ・・・ 昨日片付けたばかりなのに、たった一日でこんなにしたのか!」
「 今朝、ちょっと探し物をしたものですから ・・・。」
「 部屋を根性試しに使うんじゃない!いいから入れ。手伝ってやるから。」
「 手伝うって何を ・・・。」
「 片付けるんだ。出したら仕舞う。当たり前だろ?」
捲簾が何時もの荒っぽい動作で天蓬の腕を掴み、部屋の中に押し込もう
としたとき、後ろから 「 何てことをするんだ、止めろっ!」 と声が掛かった。
一旦立ち去った筈の金蝉が戻って来ていた。
何事かと振り向いた捲簾の顔面をいきなり金蝉の拳が襲った。
温室育ちの金蝉に、鍛え抜かれた叩き上げの軍人である捲簾が倒せる訳
が無いのだろうが、この反撃されるということを知らない怖いもの知らずの
青年は、本来有り得ない筈のその行為を、躊躇いも無くやってのけた。
損傷は殆ど無かったものの、顔面に手を掛けられれば立派に腹は立つ。
「 てめ ・・・ どういうつもりだ!」 捲簾が怒鳴り付けた。
「 お前こそ、今天蓬に何をしたっ!」
見れば金蝉は、天蓬に負けず劣らずの色白の顔を、怒りで紅潮させており、
肩を震わせながら怒っている。
根っからの野良犬育ちの捲簾の仕草は、どれ一つとっても無骨で手荒く、
腕を取るにしても 「 掴んだ 」 としか表現出来ない種類のものではあったが、
本人にそのような気は無く、殊に天蓬に対しては、ガラス細工でも扱ってい
る気分の捲簾には、詰 (なじ) られてもピンと来なかった。
まして相手がいきなり興奮し怒りを爆発させていたのでは理解の仕様も無い。
「 自分の上官を掴み回してどういうつもりだ!」
金蝉が食い付きそうな勢いで抗議する。
「 金蝉 ・・・。」 天蓬が割って入った。
「 彼はボクの部屋を片付けてやろうと言ってくれていたんです、今。」
「 嘘を吐け。見ていたんだぞ。この男がお前を引っ掴んで ・・・。」
「 軍人というものは外部の者から見ると、動作が荒いんですよ。あれが、
普通に部屋に入れと促しているだけの仕草です。」
「 そんな ・・・。」
まだ捲簾を睨み続けているその顔が、少しも納得してはいなかった。
「 本当です、金蝉。・・・ 貴方も先程、ボクの髪の毛が綺麗になったと褒め
てくれたじゃないですか。」
「 天蓬?何でこんな時にその話を?」
「 部屋も前よりは片付いていると ・・・。両方とも彼がしてくれているんです、
捲簾が。」
「 え ・・・?」
まるで殴られでもしたかのような表情を見せる金蝉に、天蓬の仲裁を取敢
えず黙って聞いていた捲簾ははっとした。
「 何故そんなことをさせる。髪の手入れを本格的にしたいのなら、戻って
来れば良いだけの話だろう。お前、一体何時までこんなむさ苦しい所に
居るつもりなんだ。」
一体何を言っているんだ? ・・・ とは思ったが、それよりも、人の顔面を
殴っておきながら、平然としている金蝉に先ず腹が立った。
「 お前、人を殴っておいて謝りもせず ・・・。」
「 何故謝る必要が有る?理由はどうあれ、お前が不躾であるのは本当だ。」
捲簾がマジ切れする前にと、天蓬は捲簾の前に回って抱き止めるように
して押さえ、顔を振り向けて、金蝉に兎に角自分は大丈夫だからと告げ、
引き上げてくれるように頼んだ。
力が弱い癖に態度の大きな金蝉は、立ち去り際に言い捨てた。
「 敖潤殿も大した監視役にはなっていないようだ。そんな者を野放しにして!」
「 こんのう ・・・!」 と悔しがる捲簾を、天蓬は無理矢理部屋に押し込んで
やっとのことでドアを閉めた。


「 一体あいつは何なんだっ!」
怒りの治まらない捲簾が部屋の中で怒鳴った。
「 お坊っちゃまという人種ですよ。言いたいだけ言いますが、何の悪気も
有りません。好い人ですよ?付き合ってゆく内に貴方にも分かってきます。」
天蓬は、既に済んだことのような顔をして澄ましている。
おまけに興奮している捲簾に茶を出そうとして、湯飲みを並べていた。
「 やめろ、盛り殺したいのか!」
捲簾が天蓬の手から茶筒を引っ手繰って、自分で茶を入れ始めた。
「 良いからそっちに座っておれ。」
茶が入ると、ソファにいる天蓬に一つを出し、自分も一つ持って向かいに座る。
「 何でこの俺が、あんなのと付き合うなんて思うんだ。」
「 ボクの数少ない友人ですから。当然そうなるかな ・・・ と?」
「 あれが、お前が軍部入りする前の唯一の友人なのか?」
「 ええ ・・・。」
詳しくでは無かったものの、事情は一応聞かされていたので、それ以上
金蝉を悪く言うことも出来なかったが、いきなり人の顔面を殴りつけるとは
何事だろうと、捲簾はまだ腹立ちが治まらない。それに ・・・。
天蓬が捲簾の内心の声に答えるように言った。
「 あの人の拳くらい、蚊に刺されたようなものでしょう。子供の悪戯だと
思って受け流して下さい。」
「 それはそうなんだが、あいつは ・・・。」
「 はぁ ・・・?」
「 あいつは、その ・・・。」 後の言葉が続かなかった。
「 あいつは ・・・ 何なんです?」 天蓬が促すが、その先は言えない。
代わりに、もう一度金蝉のことを訊いてみることにした。
「 なぁ、天蓬?・・・ お前、金蝉のこと、親友とか思ってる?」
「 ええ。親友だし、唯一の幼馴染です。途中で一度人間関係を断ち切って
しまって此処に来たので、それ以前のボクを知っている唯一の友人という
ことになりますね。敖潤閣下にも余り嬉しくない過去を知られていますが、
金蝉はそれ以前の子供時代のボクを知っているんですから。」
「 お前ってさ、知られているのが怖くって、知っている人物と付き合い続け
ているのか?」
「 まさか。知られているのが嫌でそういう対人関係をどんどん切り捨てて
生きてきた結果が、今の状態なんです。それでも残った付合いが、彼とか
敖潤閣下ですよ。・・・ 物持ちは悪くて、何でも投げ出してしまうんです。」
捲簾は溜息を吐きながら天蓬を見たが、天蓬は茶を飲み終えて立ち上り、
部屋を出ようとしている。
「 敖潤閣下の所に行って来ます。依頼されている仕事があるものですから。」
「 部屋の片付けは?」
「 出すのは好きなんですが仕舞うのは苦手です。もうこのままで良いじゃ
ないですか。」





天蓬が出掛けた後、捲簾は立ち上がって湯飲みを片付け、ついでにそこ
ここに撒き散らされた書物と書類を元に戻し始めた。
手を動かしながら、頭は考え事に没頭している。
自分がここに来て、天蓬と付き合い始めた頃、天蓬は元々親密であった
敖潤を急に意識し始めた。
指摘したり疑ったりしたのが刺激になったんだろうな、と思っていた。
それに敖潤は勿論、経験は有ると言っていた筈の天蓬も、その経験とやら
が陰惨なもので、結局のところ最後まで何にも目覚めてはいなかった。
碌に人に惚れたことも無い上司と部下で、ただ気が合って兄弟のように
して暮らしていた所へ、自分がやって来て、それ以外の接し方を教えて
しまったのだろう。
ややこしくなって来やがった、と苦々しく思っていた所に、今度は金蝉が
現れて、徒事では無いという顔をしている。
体格ばかりが良く、見るからに脆弱そうで、威張りはするが何事も押し通す
といった風ではない金蝉が引き返して来て天蓬を庇い、自分を殴った。
仮にこれまで何とも思っていなかったにしても、嫌でも今日気付いただろう。
天蓬と友人以上のものになりたかったということに。
前回の失敗を踏まえて、今回は天蓬に指摘することを避けた。
言われなければ気付かない鈍さが天蓬には有った。
あの生活態度を見ていれば、自身の容貌の持つ真の価値に気付いていな
い事は明らかだろう。どうしたものか、と捲簾は考えあぐねていた。
何にしろ、前回のように天蓬まで呼び覚ますことだけはしたくない。
あいつは ・・・ あいつは絶対に俺のものだ。
そこまで考えて、捲簾も軽い驚きを感じた。
嫉妬しているだと ・・・ この俺がか?
まあ相手がずっと女性であったとは言え、恋愛体験に関して百戦錬磨の
この俺がたった一人を失うのが怖いのか?と自問してみる。
問われた己があっさりと根を上げた。
怖いさ、分かっている筈ではないか。
女官たちと違ってあいつには代わりがいない。
ものぐさで年中怠るそうで、しょっちゅう的を外した受け答えをし、仕事以外
の生活能力がゼロにも等しい、赤ん坊のような男。
その癖、頭が切れて、腕力に頼らない独特の戦闘技術を持ち、他を圧倒し
続けると共に、自分にも強い憧れを抱かせた。
しかもあの容貌と来ている。
顔を隠すように髪を伸ばし、眼鏡を掛け、普段人に見せている部分が少ない
にも関わらずドキリとすることの多い奴だったが、髪を引き詰め、きちんと
軍服を着たあの風貌は、西方軍の兵士達を性的志向の如何に関わらず、
まとめてノックアウトしていた。
そして自分はその眼鏡を外した顔さえも何度も目にしている。
まさか、と思ったほどの美貌であった。
要するに捲簾には今や、天蓬の内面・外面両方が手放し難いものになって
いたのだが、肝心の天蓬が今ひとつ定まらないというか、自由に振舞い
過ぎて、何をどうしたいのかも分からない始末だ。
気が多過ぎて浮付いて見えるというならまだしも、時々恋愛を否定するよう
な発言をし、急に気難しくなって人との接触を拒む癖が抜けない。
いや、接触はさせるのだが、心を閉ざしてしまうのだからもっと性質 (たち)
が悪いとも言える。
根源は恋愛感情の縺れというよりは、破滅志向が前面に押し出されている
とも受け取れるところが不安で仕方が無かった。
そもそも ・・・ と捲簾は考えながら天蓬の大事にしていた事典類にはたき
を掛け始めた。
友人が少ないという人物は、普通そのまま人に好かれないことを指すの
ではないだろうか?
天蓬は明らかに違っていた。誰にでも優しく微笑み掛け、思い遣りの有る
言葉を掛けるため、友人になりたいと感じる者は常に多く、また、仕事上の
能力とその容姿でも崇拝者に近い者を周りに集めて暮らしている。
その中で常に孤独を感じ、友人は少ないと言い、天蓬が親友と呼んだ者に
至っては自分を含めて3人だけだ。
その3人の中で、唯一天蓬に友情以上のものを感じていないのが金蝉と
いう存在かと思っていたのだが、どうやらそれは違っていたようで、初めて
会ってみれば、金蝉の方には充分にその気があるらしい。
下手に指摘して、四角関係にまでしてしまったら救いようがなさそうだ。
散らかっていたものを粗方元の位置に戻すと、捲簾は埃を叩いたりして
汚れてしまった床を掃除し始めた。
考え事をしている間に、何時の間にか掃除は終わりかけていた。





「 本来なら金蝉を閣下の所へ行かせるのが筋なのですが、一応自分が
聞いて置きました。」
天蓬は敖潤に観音からの仕事の依頼を伝え、そう付け加えた。
「 お前に関してはどちらがどうでも別に構わん。受けたければお前の判断
で受けてしまっても良かった位だ。」
「 そんな訳にはゆきません。」
「 大体、金蝉はずっと私に反感を持っているしな。」
「 静かに暮らして来た人なので、軍人が怖いのでしょう。」
敖潤は明らかに違う、という顔で天蓬を見上げたが、天蓬が大真面目に
そう言っているのだと気付いて、何も言い返さなかった。
「 で、内密にということだが、誰をやる気だ?」
代わりに敖潤が人選を尋ねた。
「 お許しが頂ければ、自分が行こうかと思うのですが。秘密は広がらないに
越したことがないでしょうし。」
「 そうか。扱いも難しそうだし、そうするより無いかも知れんな。捲簾を連れ
てゆくのか?」
少なくともこの場面では余り聞きたくない名前を聞いて、表情を強張らせる。
「 どうしてでしょう?捲簾には当然ここの留守を守らせるつもりですが。」
「 観音の内密の仕事が入っている間に、重要な仕事が回ってきた例 (ため
し) など無かったろうに。責任上、観音が押さえているのだろう。」
天蓬も頷いた。
「 それはそうだと思いますが、表立ってそう宣言されている訳でもないので、
万が一という事も ・・・。一人で行って来ます。」
「 今回は止めておけ。今度の仕事では人間界に入り込むことになる。
捲簾を連れて行った方が良い。あいつは目付きが悪いから、良い用心棒
にはなるだろう。」
「 しかし ・・・。」 天蓬は躊躇った。
「 嫌なのか?何故?」
理由を問われると天蓬は、ただ唇を噛み、一瞬目を固く閉じた。
しかしその理由は口にしたくは無かったらしく、やがて諦めたように
「 いえ ・・・。御命令とあればそのように致します。」 とだけ答えた。
天蓬が辛そうにしていると感じはしたものの、理由を言わないため、どうにも
してやれない。敖潤はただ、捲簾には自分から命令を出すので後で寄越す
ようにと指示した。
「 あ奴は、ここに近付きたがらんがな。」
「 自分のように簡単に出入りして良い訳も無いのでしょうが ・・・。」
「 お前は今のままでいろ。」
馴染みの無い者が見れば不機嫌なのかと疑うような、独特の大真面目な
顔付きで敖潤が言った。


捲簾が敖潤の所に出頭して行ったのを見送り、天蓬も着替えて観音の屋敷
に向かおうとしていた。
よれよれの今の服装で出掛ける事に恥ずかしいというよりも、誰なのか分か
らないのではないかという懸念があって、暫く躊躇った後、軍服に着替え
ようとしたが、内密にと言われていたのを思い出し、時間を見て勤務時間を
過ぎていることを知ると、敖潤から受け取った着物の一枚を引っ張り出した。
普段がだらしないため、着替える時には全部を変えざるを得ず、靴から
髪留めまでを一緒くたに仕舞ってある箱からそれらを取り出して着込む。
仕上がると、鏡に映して見ることさえしないで部屋を出た。
箱に何も残っていなければ、天蓬の着替えは無事終了なのである。
出て暫く歩くと、早々と戻って来た捲簾と出くわした。
「 天蓬 ・・・ それは ・・・。」 と驚いた捲簾が尋ねてくる。
「 何処へ行くつもりだ。」
「 観音の屋敷です。承諾を伝えに。」
「 何で着替えているんだ。」
「 内密にと言われているので、軍服は拙いかと思って。何か問題でも?」
「 ああいや ・・・、だが送って行こう。護衛だ。私用であってもお前の身分
なら、護衛の一人くらい居た方が良いだろう。」
「 護衛って ・・・。ボクが誰かの護衛に着く立場なんですが。」
「 いいじゃないか、他のお偉いさんだってやっているんだし。」
「 でも ・・・。」
天蓬が困ったような顔をするのを無視して、捲簾は天蓬の腕を掴むと歩き
始めた。
「 昼間も見たろうに。俺は金蝉に顔を殴られたが、全く仕返ししていない。」
「 それは嬉しかったですが、貴方は今また、昼間に金蝉を怒らせたのと
同じ事をしています。それに ・・・。」
「 それに?」
「 もう、貴方も敖潤閣下に命令を下されたのだから、言っても良いと思い
ますが、今度の任務は扱いがデリケートなんです。」
観音に会い、捲簾を見せるのが何とは無しに天蓬には不安に思える。
ましてや他に部下が居らず、観音がその感想を口にするのを誰に憚る必要
も無い場面と言うものを、天蓬は避けたかった。
しかし、その思いは捲簾には知られたくない。
そこでつい、相手がデリケートでは無いと決め付けるような言い方をして
しまったが、捲簾にとってそれは当然のことであったらしく、気にも止めて
いない様子であった。
「 デリケートはお前がやるんだから問題無いさ。俺は目付きが悪いから
用心棒向きなんだそうだ。」
「 それ、閣下が仰ったんですか?」
本人を目の前にそこまで言うか、と天蓬も呆れたが、それでも捲簾は、意に
介さない。
「 はっきり仰いやがったさ。お前にその姫君の相手をさせ、俺はその2人の
用心棒の役目だと。それを突破して襲った奴が居たとしても、それはお前
が弾き返すから良いと思うが、そうなると姫君がお前にも怯えるかも知れん
から、なるたけお前には実力を出させるな ・・・ そういう御命令だ。」
「 そうなんですか?」 天蓬は溜息を吐いた。
「 お前が気に入っていないようだから怒らせるなとも言っていた。何故だ?」
この辺りの疑問には、敖潤と違って捲簾はストレートに尋ねてくる。
「 いえ ・・・ 貴方と二人の仕事は嫌だと思っただけです。」
「 何で?部下達が居ないと不安な存在なのか?俺は?」
「 さぁ ・・・ どうでしょう。」
天蓬はただ誤魔化して、歩みを速めた。





観音の屋敷に着いた天蓬は意外なことに、その使用人たちから満面の
笑みと共に、「 お帰りなさいませ、天蓬様。」 と迎え入れられている。
周囲を黒塀に囲まれ竹林に仕立てた庭を敷石伝いに進むと、やがて瀟洒
な屋敷に着いた。
こんな凄そうな屋敷にお帰りなさいませを言って貰える人物は観音その人
と、精々金蝉だけである筈なのだが ・・・。
「 お前、観音のところで働いていたと言ったろう?」 捲簾が確かめた。
「 ええ。使用人として。金蝉の学問をみたり、この屋敷の書庫を管理したり。
ただ、観音と金蝉が、ボクの没落し消え去った家系を尊重して、周りの者
には、預かっているのだと紹介しておいて下さったので、今だにこういう
ことに ・・・。」
「 ふーん。観音がどんな奴かは知らんが、金蝉がお前を対等な友人として
扱っていたところなど想像出来ん。あいつは今日俺を見て、いきなり下僕
扱いだったぞ?」
「 静かで繊細な環境に育った人ですから、今のボクを初めて見たので
あれば、同じように言うと思います。」
「 いや寧ろ、今の容貌のお前なら、そうなると思えんが。」
そうこう言っている内に、玄関先に現れたのは観音本人であった。
「 久し振りだな、天蓬。お前そんなところで何をしているんだ?」
顔立ちの造りが大きく化粧も濃くて、唯でさえ派手に見えるその上級神は、
大振りな動作で天蓬に近付き、前に立つといきなり天蓬の肩に手を置き、
髪の毛を撫でながら、親しげに声を掛けた。
子供時代に手許に置いていたという癖をそのまま残しているらしい。
天蓬は別に驚く様子も見せないが、かと言ってそれに合わせて馴れ馴れ
しく振舞う気も無いらしく、普段と同じに堅苦しい挨拶を返している。
「 お久し振りです。観世音菩薩 ・・・。」
「 とっとと入って来て声を掛ければ終いだろうに。お前という奴は何時まで
経っても堅苦しいな。」
観音が不満そうにして見せた。
天蓬に勝手に観音の屋敷に入ることが許されているだと?
今日は頭痛がする程、色々新しい事実を知ったが、これが一番不可思議
な事実だと捲簾には思えた。
使用人同様に全て面倒を見て引き取りながら、使用人扱いしなかったと
言うなら、それだけの敬意を払って体裁を保ってやった天蓬の実家が、
どれほどの名門であったのかも察しが付く。
そういう待遇を受けながら軍部入りしてしまい、その後は問題が起きた際
に、一度手助けしてもらったとは言うものの、それも秘密裡であったため、
捲簾自身を含め、誰もが天蓬が己が才覚で伸し上がってきた事しか知ら
なかった。
後ろ盾を全く感じさせぬほどの実力を見せ付けられ、想像もしていなかった
が、天蓬にはこんな人脈が有ったのかと初めて知った。


天蓬は真っ先に観音に敖潤の許可が出たことを伝え、担当は自分だと
告げたが、観音には玄関先での報告は不本意であった様で、感想も口に
せず、ただ報告を聞き流すと、相手の言葉も終わらぬうちに奥を指差した。
「 兎に角入れ。お前が付き人を連れて来るとは珍しいな。」
観音が先に立って歩き出し、天蓬は後を追いながら受け答えしている。
仕方なく、捲簾も少し間を開けながら二人の後を付いて行った。
「 付き人ではありません。彼は今度の仕事にも参加する捲簾。うちの大将
です。」
「 ほう ・・・?敖潤はあ奴が手伝うことを知っているのか?」
「 閣下の御命令で同行させることになりました。」
「 敖潤がなぁ ・・・。敖潤がそうさせようとしたということは ・・・。」
急に観音が振り向き、先程は一瞥を与えただけに止めた捲簾をまじまじと
見詰めた。
「 お前、天蓬の信頼を得ているらしいな。」
「 だと良いんですが ・・・。」
捲簾も相手の地位を考え、珍しく丁寧に答えている。
「 敖潤は天蓬の為にならない事は何もさせない。例え天蓬自身がやると
言い張ってもな。逆に天蓬が嫌がって見せても、それが天蓬に良いと思え
ばやらせる。お前には恐らく天蓬を補える力が有るのだろう。」
「 ・・・ そりゃまた、どうも ・・・。」
観音は口尻を上げてにやりと笑った。
「 お前、頭は無くとも、力自慢で馬鹿丈夫なんじゃないのか?」
「 ・・・ はぁ、まぁそんなようなもんです。」
その答えに観音は今度こそ大口を開けて哄笑した。
着いた先の部屋に入ると、天蓬に椅子を勧め、捲簾にも自ら予備の椅子
を出して宛がってやった。
座った捲簾をじっくり上から見下ろして眺めている。
「 成る程な。馬鹿じゃない。天蓬に迷惑が掛かると踏めば、馬鹿呼ばわり
されても大人しくしていられると言うことか。そこそこ切れる。・・・ 良さそう
じゃないか、天蓬。どうせ指揮はお前が執るんだろう。切れ過ぎる必要は
有るまい。ここまで気が利けば充分だ。」
天蓬は表情を曇らせた。
「 あのう ・・・ お聞き及びかどうか ・・・ 彼には現場でボクの上官をして
貰っているんです。余りそういうことを仰られると、後がやり難いのですが。」
「 お前が部下に回ったのか?ほほう?・・・ 楽しそうじゃないか。」
「 ええ ・・・。」
「 仕合せそうにしている。前回会った時よりも明るくなったな、お前。」
観音がこのように機嫌好く観察するのを見ておれば、捲簾にもこの最上級
神が心底天蓬を案じていたのだと、察しが付いた。
しかし、その割りには天蓬の反応が鈍いのが多少気に掛かる。
「 そうでしょうか。」
「 お前が益々綺麗になって、最近色気が出てきたという噂だったが、その
通りだった。まぁ、敖潤は品は良いが思い切って気持ちに踏み込んでくる
ということが出来ん男だからな。お前にはこいつが良かったのだろう。」
「 ああ、いえ ・・・。」
天蓬の困惑が更に大きくなったその時、若い姫君が召使いに案内されて
部屋に入って来た。
観音はそれを認めると、姫を手招きして傍に呼び寄せ、天蓬の前に立た
せた。
天蓬が立ち上がると、姫はその顔を見て驚いている。
「 ほら、な。軍人と言っても何も怖がることはなかったろう?」
言われて姫は大きく頷いた。
「 何という ・・・。」 あとの言葉が恥ずかしさに消える。
「 俺様の言ったとおり、綺麗なのが来ただろ?何も心配することは無かっ
たのさ。・・・ 天蓬、それが件の娘だ。その娘を無事に送り届けて貰うだけ
の仕事なんだが、男性恐怖症という奴でな。・・・ と言って女性に送らせる
には物騒な道中になりそうで、それでお前の所に頼んだんだ。この娘の
身分を考えても十中八九お前自身が出て来る、とは思っていたがな。」
天蓬は困ったような微笑みを浮かべた。
観音は予めその部屋のテーブルに置いてあった箱を指し示して、開けろ
と指示した。
天蓬が開けてみると、その箱の様子で見当が付いていた通り、やはり中身
は着物であった。ただし、豪奢ではあるが女性物のようだ。
「 姫君と共にこれも届けるということでしょうか?」
「 お前が着るんだよ、天蓬。明日は、この娘には側仕えの格好をさせる。」
「 入れ替わるのですか?まぁ確かに ・・・ 姫君は背の高い方ですが ・・・。」
「 今の内に一度着てみておいてくれ。具合の悪い所は直しておかないと。」
促されると天蓬は特に文句も言わず、その着物を箱から出して手に持った。
「 着替えは何処で ・・・。」
「 此処でやるさ。女じゃあるまいし、何を隠すつもりだ?」
驚いたことに天蓬はそれにも異論を唱えず、部屋の隅に行くと、自分の
来ているものを脱ぎ始めた。
捲簾があとを追って天蓬の前に立ち、脱いだものを受け取ってやりながら、
周囲からの視線を遮ろうとする。
姫は意外と大胆なのか、それ以前から釘付けになっていた天蓬の容貌
から目を離せなくなっていただけなのか、着替えの為に着ている着物を
脱いでゆく天蓬をじっと眺め続けていた。
天蓬が下着だけになり、細く真っ直ぐな手足が露出されると、この大胆な
男性恐怖症の姫は、あっと声を上げ、慌てて恥ずかしそうに口を押さえた。
捲簾が忌々しそうに観音の用意した着物を差し出してやる。
着替えが終わって、完全に女性用の着物に着替えた天蓬は捲簾さえ唖然
とするような妖艶な姿で、姫も眩暈を起こしかけていたが、観音一人が妙
に冷静だった。
「 似合ってるじゃねえか?」
「 これで宜しいでしょうか?」
「 良さそうだ。どこも直す必要は有るまい。」
観音は満足そうである。
「 おい、その形 (なり) で何処に刀剣をしまうんだ?」
捲簾が疑問を口にした。
「 刀剣はお前が持つんだろうが。」
天蓬への質問を引き取って観音が事も無げに言う。
「 お前が二人分の得物を持って、襲われたら天蓬に投げてやれば良いん
だよ。なに、間に合うさ。天蓬は動作が速いから。」
それも知ってやがるのかと捲簾は思ったが、それにしてもそんなに上手く
刀剣が渡せるとも限るまいに、大丈夫なのだろうか。
「 正確に投げ与えられぬお前でもあるまい。・・・ 第一天蓬のこの姿を見て、
全力で押さえ込もうとする奴もいるまい。」
随分な言い草であったが、確かに上背が少々行過ぎている以外、天蓬は
何処からどう見ても、非の打ち所の無い麗姫であった。
いや ・・・ もう一つ拙い所があるか。
ここまで飾り立ててみれば、眼鏡がやはり不自然だ。
「 眼鏡はどうするんだ。」
捲簾にもう一度突っ込まれると、観音は煩そうに眉を顰めた。
「 外せないなら掛けておくしかなかろう?良いじゃないか。なこと、どうだって。」
「 そんなものを掛けた姫君なんて見たことがないぞ?」
「 お前、細かいんだよ。天蓬の近眼に付いてはごちゃごちゃ言うな。」
余りその話はしたくないという様子である。
「 お前がそういうことを言うと、俺は治してやりたくなっちまうじゃないか。」
捲簾が驚いて観音の顔を見た。
観音は人を食ったような顔をして笑っている。
「 治させないんだよ。それもこれも自分の一部だと言って。」
何故そんな不利なことをしたがるのか、感情としては理解出来なかったが、
何故か、全ての不利も平然と受け入れる天蓬ならやりかねない気がして、
同じように身体も治させないのだろうという逆算的な納得だけは出来た。


着物の点検が済むと、天蓬は直ぐにも屋敷を辞したい様子を見せた。
「 相変わらず此処には居付きたがらないようだが、天蓬 ・・・。」
観音が咎めるような鋭い目付きになって、立ち去りかけている天蓬に声を
掛ける。
思わず漏らした溜息に、心底そうされたくはないという本音が窺い知れた。
「 お前が何と考えようが、此処はお前の実家だ。それに、あの事件ではお前
に非は無い。お前は全面的に被害者だった。敖潤が説得して聞き入れた
筈ではなかったのか?」
出て行き掛けていた天蓬の動きが止まり、その顔が些か寂しげに俯いた
が、振り返ることはしなかった。
「 ・・・ その通りです。」
「 なのに、その時お前を見付け、説得した敖潤にしか従わない。ま、最近に
なって漸くこいつの言葉も耳に入るようになったのだろうが、俺のはまだ
駄目なのか?」
天蓬は伏せた視線を上げることが出来ずにいた。
「 いえ ・・・。有り難いと思っています。」
そのまま振り返らず部屋を出て行ったので、捲簾も後を追おうとした。
観音が 「 待て。」 と低い声で呼び止め、捲簾に何やら小さな袋を持たせた。
「 昼間の金蝉の振る舞いへの詫びだ。・・・ 天蓬を頼む。」
頼むと言われても、どうしてよいのか分からなかったが、それでも捲簾は
頷いた。
どういう状態がお望みかは知らないが、何かに苦悩しているらしい天蓬を
見放す気など毛頭無かった。


軍への帰途、天蓬が観音の屋敷で我慢していた煙草を吸い、煙を吐き出し
ながら、観音の屋敷でしていたのと同じように後ろから付いて来る捲簾を
振り返った。
「 どうして、横を歩かないんです?」
「 お前って、何だか御大層な身分のような気がして ・・・。ま、眺めていたい
のも本当だが。」
「 馬鹿馬鹿しい。今の軍での地位が全てです。」
「 らしいな。軍を離れようとした時にも、お前、敖潤を頼ろうとしていたし。」
「 分かって頂けて何より。」
それ以上の解説も言い訳もしようとはせず、天蓬はそのまま歩いて行く。
確かに、少なくとも天蓬の側では、観音の所へ戻るのどうのという考えは
全く無いのだろう。軍が全ての生活であるようだ。
「 なぁ、お前がこの仕事から俺を外そうとしたのは、観音との関係を知られ
たくなかった所為か?」
捲簾が、言われた通りに横に並ぼうとしながら訊いた。
「 いいえ。」 そう答えると天蓬は、折角並んだ捲簾を置いて、歩調を速め、
とっとと先に行ってしまった。





少し先を歩いた天蓬は、西方軍に帰り着くと、そのままもう一度敖潤への
報告に赴いた。
明日が実行日となるため、時間外云々を言っておれないのだろうと思い、
捲簾は天蓬の私室で待ってみたが、一時間経っても戻って来ない。
気になって敖潤の所へ出向いて行き、ドアの前に立ってみたが、中はしん
と静まり返って音一つ聞こえて来なかった。
時間を大きく外れて既に夜になっているため、辺りの廊下に人の姿が無い
のを見て取った捲簾は身体をドアから離したまま、そっと鍵穴を覗いてみた。
部屋の反対側にあるソファで、天蓬が敖潤に抱かれていた。
いや、婉曲表現される方ではない。
双方きちんと衣服を身に付けたままの状態で、上官が横に座った部下が
身体を倒してきているのを受け止めて、自分も背中まで手を回して抱き締
めてやっている。
その手が宥めるように天蓬の背中をさすっていて、これから何か良からぬ
事をしようとしていると言うよりは、子供をあやし宥めているように見えた。
ただし、実際にそうされているのは子供ではなく、敖潤に贈られた豪奢な
着物を着込んで、髪も上げ、澄んだ美貌を放つ天蓬だという点が気掛かり
なのだが。
捲簾は溜息を吐くとドアから離れ、自分の私室に戻って行った。
― 結局、過去に纏わる記憶に悩まされると、頼るのは敖潤なのか。 ―
そう思うと腹が立ったが、そうはいっても震えるように上官にしがみ付いて
いたあの天蓬を見れば、放って置くことも、今一度事情を聞くことも出来
そうにない。
力になりたくとも、自分はその古い事件とやらを知らず、思い出しただけで
あんなになってしまう天蓬自身に説明させる訳にもゆかなかった。
今自分にしてやれるのは、このまま敖潤に任せておくことだけなのだろう。
途中、遅い仕事の仕舞いをした女官が何処かへ帰って行くのだか出掛け
ようとするのだかと擦れ違った捲簾は、艶やかな女の様子に思わず声を
掛けようかと考えたが、殆ど声を発しかけた所で止めた。
以前ほどには相手に引き込まれなくなっている事に気付いて顔を顰める。
それよりも何倍も整った天蓬の容姿が目の前をちらついた。
しかも、本来男性である天蓬には捲簾が疎んじている、人に阿った表情が
全く無い。
捲簾は改めて、天蓬と知り合ってから、殆ど女性に興味を示さなくなった
自分に気が付いた。
といって、むさ苦しいばかりの同性に対する興味など、今でも一切感じない。
― あいつでなければ、ならんということか? ―
だのに ・・・。
その肝心のあいつが何を考えているのかすら分からない。
分かり難いあいつを何とか理解出来ているらしいのは、自分以外の男だ。
もう一度大きく溜息を吐きながら、煙草を取り出そうとポケットに手を入れた。
その時、何かに手が触れてガサリと紙の音がした。
引っ張り出して見てみると、観音に手渡された土産である。
そうだった、と思い出し、袋を開けてみると薬包が五包と小さな紙切れが
入っていた。
紙切れには、一回一包厳守。服用後二時間の内に起きたる出来事を記憶
から削除する秘薬、とある。
馬鹿にしやがって!と、思わずその場に捨ててしまいそうになった。
この効能で思い付くのは強盗と強姦くらいのものだったが、生憎そういう
趣味は無い。
しかし、思い留まって捨てるのを止めた。
万が一誰かに拾われて、犯罪に使われても後味が悪いと思った捲簾は、薬
を自室に持ち帰り、箪笥の一番下の抽斗を引き抜くと、その下に袋を落とし
込んだ。


夜半過ぎ、握り飯にスープを添えた盆を持った捲簾が、天蓬の部屋を訪れ
ると、中は真っ暗で、一瞬居ないか寝てしまったのかと戸惑った。
翌日に仕事を控えた天蓬が、その点検をせずに寝てしまうとも信じられず、
暗闇に目が慣れるのを待つと、窓辺りに座って部屋の内側の向き、足を投げ
出して床に腰を下ろしていた。
「 こんな暗闇で何をしている。」
「 座って時間を過ごしています。」
「 灯りを点けるぞ。」
捲簾が灯りを点け、盆をテーブルに置いてやった。
「 夜食だ。」
天蓬の口が開きかけ、「 要りません 」 という形に動いたが、止めたようで、
ただ立ち上がってソファにやって来た。
スープにちょっと口を付けてみるが、真似事だけのようだった。
「 あの ・・・ 後でゆっくり頂きますから。」
そう言って捲簾を退散させようとする。
「 本当に?」
「 ええ。本当に。ボクだって頬に影が出たなどとは言われたくありません。」
捲簾は頷いた。しかし、気に掛かって呼び掛ける。
「 天蓬、大丈夫なのか?」
「 ええ。何も問題は有りません。」
「 だったら、もう寝ろよ。何だったら俺の所に ・・・。」
言い掛けて捲簾は言葉を呑み込んだ。
天蓬が全身をピリピリさせて警戒しているのが何となく分かる。
こいつは今、そういうことを言って欲しくないのだと感じた。
「 いや、いい。明日見に来る。」 そう言って、部屋を出るしかない。
天蓬は、また過去の亡霊に捕まっているに違いなかった。





仕事自体は簡単に片付いた。
男性恐怖症の姫は天蓬に寄り添うようにして下界に降臨し、目的の人物
に会って御機嫌であった。
途中てっきり襲われもし、敵の数の多さに念の為にと、出来ればやるなと
言われていた剣を天蓬に投げることもしたが、姫は天蓬が刀剣を振るって
も平気でいた。
流石に姫の前に血濡れの姿で立つことは出来ないと、天蓬も専ら防戦に
徹していたし、仕方なく斬り付けた相手からは身体を引き気味にしていた。
その所為か、目の前で起きた斬り合いにも怯えず、寧ろ天蓬の剣術の手腕
に心酔した姫は道中ずっと天蓬にしがみ付いて離れなかった。
天界に戻って来るまで、ずっと天蓬を放さなかった姫だったが、無事送り届
けられると袖から袋を出して、傍らに立つ捲簾に腕だけを伸ばしてそれを
渡そうとした。どうやら男性恐怖症は嘘ではなかったらしい。
「 観音菩薩様から、貴方にお渡しするようにと。薬を間違えたので渡し直し
て欲しいとのことです。」
「 え?」 開けて調べてみると、先に貰ったものと似たような薬包が入って
いたが、一緒に入れてあった覚書には、「 即効性傷薬。身体中の傷を一度
に塞ぐ。」 とある。
「 なるほど。これなら分かる。職業柄有り難いな。」
捲簾はやっと納得した。
「 しかし、前のはどうすれば良い?」
「 先にお渡しした薬は、破棄して下さいとのことです。」
「 分かった。有り難がっていたと伝えておいてくれ。」
天蓬が不思議そうな顔をして二人の会話を眺めていた。
言伝を伝えると、姫は向き直って天蓬に何度も礼を言い、上機嫌で屋敷に
戻って行ってしまった。
姫が屋敷に入ってしまうのを見届けた後、二人になった捲簾は、天蓬が
観音の土産について何か訊くかと思ったが、何も訊こうとはしない。
少し歩き出すと天蓬は小さな声で申し訳無さそうに言った。
「 済みません、黙り込んでしまって。任務も無事終えたんですし、もっと
明るくしたいのですが、疲れてしまって。」
「 え ・・・?」
腕を取って引き寄せてみると、また熱が出ている。
「 怯えているという人の前で弱って見せられなかったものですから。」
「 馬鹿、無理をしやがって。」
肩を貸そうとしたが、天蓬は断わった。
「 大丈夫、一人で歩けます。会話を続けるという訳には行きませんが。」
「 そんなことは気にしなくて良い。俺が話す。」
せめて、と腕を差し出すが相手はそれも嫌がった。
「 いいじゃないか、そのくらい。それに、お前、忘れているのかも知れないが
今お前は女性の格好をしているんだぞ?離れて歩いていたら却って変で
目立ってしまうんだがな?」
「 あ ・・・?」
一瞬怯んだ天蓬をさっと捕えると、捲簾は自分の腕に凭せ掛けるようにし、
片手を腰に回して寄り添わせた。
もっと抵抗されるかと思ったが、そうでもない。
最早、それだけの力が残っていなかったのだろう、天蓬はそのまま捲簾に
寄り掛かっていた。





さてと ・・・ 軍に帰り着いた捲簾は何処に行こうかと迷った。
自分の部屋に連れて行って入浴させ着替えさせて寝かせるのが一番楽
だが、観音に会ってからの天蓬は警戒が強く、それは望みそうにない。
天蓬自身の部屋に送り届けるのが妥当なのだろうが、散らかっている上、
必要なものが何も無い。
結局、不本意にも思い浮かんだのは敖潤の部屋に連れ込むことであった。
必要な薬から何から全部揃っており、天蓬も安心して手当てをさせる。
捲簾は敖潤の部屋を目指した。
「 くそ ・・・。」
思わず低く呟くと、疲れから目を瞑ってしまっていた天蓬が目を開けた。
「 貴方のところで結構ですよ。」
「 本当に?」
「 ええ ・・・。」
天蓬が怖がらないならそれに越したことはないと、捲簾は天蓬を自分の
私室に連れ込んだ。
寝台に寝かせ、衣服を脱がせようとすると腕が伸び、捲簾の首に手を回し
て来る。
「 やり難いって!」
咎めると天蓬は熱を出している時特有の焦点の定まらない目付きで捲簾
を見て、「 抱いて下さい ・・・。」 と強請ってきた。
「 何を自棄を起こしているんだ。そんな場合じゃないだろう。」
「 ボクが熱を出すのはね、捲簾。古傷が祟っているからなんです。だから、
抱いて下さい。今起きていることではないので平気です。」
「 傷って ・・・?」
捲簾は考え込んでしまった。
思い出そうとしてみるのだが、天蓬の身体には傷どころか染み一つ無く、
日にも焼けておらず、全身が綺麗な桜色であったとしか思い出せない。
「 刀で刺し抜かれた時の傷です。ほら ・・・。」
細い両腕を捲簾の首から外して目の前に差し出した。
「 両腕 ・・・?」
「 ええ。両方を刺し抜かれていましたから。手錠の代わりです。」
そんな惨い怪我を負ったことがあったのか、と恐る恐る差し出された腕を
取って眺めてみるが、傷は見付からなかった。
「 天蓬?何処にも傷跡など無いが?」
「 肘の少し下です。」
「 いや、ただ綺麗だと思うだけだ。」
「 光の加減でそう思うのでしょう。いいから、抱いて下さい ・・・。」
再び促されて、改めて横になった天蓬を眺めてみれば、華やかな女性用
の衣を纏い、熱の所為で唇を紅くして目を潤ませている。
堪らなくなった捲簾は、着物を肌蹴させ胸元に口付けを落とすと、そのまま
の勢いで天蓬を組み敷いた。
衣の帯を解き、全身を曝け出して眺めてみる。
つくづく美しい生き物だとは思ったが、天蓬の言う古傷などは見当たらない。
「 身体中何処を探しても傷など一つも無いがな。」
口付けする合間にそう漏らすと、相手も呻くように途切れ途切れに、
「 貴方は、敖潤閣下と同じ事を言う ・・・。」 と返して寄越した。
「 敖潤には抱かれたことは無い、と言ったろうに?」
「 有りませんが、その傷を治して貰いました。その時に、完全に消えたと。」
「 敖潤が ・・・?」
出された名前に捲簾は、苛付いていた。
「 貴方も閣下も優しいから、傷を見ないでボクの良い所だけを見てくれるの
ですね ・・・。」
天蓬が感謝と寂しさの入り混じった言葉を漏らし、溜息を吐いた。
何時も庇われる側に居るのが歯痒いのだろう。
おかしい ・・・ とは感じたが、既に余裕が無くなっていた捲簾はそのまま
天蓬に身体を重ねた。


思いを遂げて余裕が出来てから、捲簾はやはり気になって、天蓬に先程
の話の続きを訊こうとした。
立ち上がってサイドテーブルの引き出しから自分のと天蓬の煙草を取り
出し、片方を天蓬に渡してやると、自分の煙草を一本咥えて火を点けた。
天蓬も横になったまま同じようにしていたので、ライターを近付け、火を
点けてやる。
元々弱っていたところへ、途中から敖潤の名前に苛立った捲簾が何時も
より乱暴に抱いてしまったため、力が入りきらずに気怠るそうにしていた。
「 なぁ、さっきの傷跡の話だけれど ・・・。」
捲簾が切り出しても、天蓬には余り反応が無かった。
煙草からも手を放し、ただ、口の端に咥えてぼんやりしている。
「 俺にはどれのことを言っているのか、分からないんだが ・・・。」
仕方ありませんねぇ、とでも言うように天蓬が重い腕を上げて、もう一度
捲簾に差し出した。
「 手をこう ・・・ 突き出した状態で刀を通されたので、両手の入り口と出口
の4箇所に傷が残ったんです。」
どのような形状の傷かを説明され、そうなのだと思って見てみてもやはり
分からなかった。
ただ天蓬がどんどん弱ってゆく気がして、口から煙草を外してやり、自分も
火を消して立ち上がった。
「 寝てしまいそうだ。そうならないうちに風呂に入らないと。立てるか?」
「 それはもういいです。このまま寝ます。」
「 いや、それは身体に悪いから ・・・。ほら、手伝ってやるから。」
手を引っ張って漸く立たせてみるが、半分気を失いかけている。
諦めた捲簾は天蓬を抱き上げると、風呂場に運び込んだ。
バスタブに寝かせるようにしてシャワーを宛い、綺麗に洗い上げながらも
やはり気になって、先程よりは明るい風呂場の明かりに照らしてみた。
それでも、どうしても傷跡は見当たらなかった。





ノックの音に顔を上げた敖潤は最も聞きたくなかった声を聞いて、顔を顰め
持っていたペンを投げ出してしまった。
やはり来やがったか、と思った。
捲簾が来るような悪い予感は昨夜からしていた。
「 用は何だ。」
最初から喧嘩腰で問い掛ける。
「 どうしても知りたい。」
「 天蓬の過去なら教える気は無い。知って欲しいと思うなら、あれが自分
から話すだろう。」
「 俺もそう思っていた。だから穿り返さずに来たんだ。 ・・・ だが ・・・。」
と言い掛けて、自分でも何をそこまで動転しているのかが分からず、言葉
になり切らぬ激情に戸惑った。
考えを整理しようと煙草を取り出しかけると、敖潤が止める。
「 ここは禁煙だ。私は煙草を吸わない。」
「 ここに灰皿があるじゃないか。」
「 天蓬が吸うから置いている。貴様も知っているだろうに。」
「 何だと、その何処が禁煙なんだ。」
苛付いている所に掛けられた更に苛付かせる言葉に捲簾はかっとした。
「 一体何が気に食わない。」
「 天蓬自身が、何か混乱していると思うのだが?」
「 貴様よりはマシだろう。」
「 昨日、疲れて朦朧としていた天蓬が、発熱が古傷の所為だと言った。」
やはりな、と敖潤は内心苦り切っている。
観音に会いに出掛けた際、捲簾が付き添い、その夜浮かない顔をした天蓬
が自分の部屋を訪れた時から、何とは無しに悪い予感に苛まれていた。
「 そうなのだろう。」
素っ気無い相槌を打ってはみたが、それで引き下がる捲簾だとも到底思え
ない。予想通り、捲簾は食い下がって来た。
「 だが、腕の何処にもそんな傷は無い。」
「 ・・・ 結局それか。」
忌々しそうに敖潤が拳を机に落とした。
「 傷は私が消した。完璧にな。元々天蓬は人間のように傷は残り易くは
出来ていないし。そこへ私が特効薬を宛がったのだから、何も残らん。」
「 だが、あいつには傷が見えている。はっきりと見えているんだって。」
「 そうだな。」
敖潤はただ肯定した。
天蓬が実際に傷を感じていることなら誰よりも良く知っている。
昨日今日に天蓬と知り合った捲簾になど何が分かるかと思う程に、長くそれ
に悩まされ、見捨てることが出来ぬまま付き合って来た複雑な事情があった。
「 そうだな、って ・・・。」
返答の余りの簡単さに呆れたが、相手の顔を見れば、本気で簡単な問題
だと思っているという表情とは程遠い。
仕方無く次の言葉を待ってみると、敖潤も察した様子で、自分から話し出した。
「 心というものは複雑なものなのだろう。あれの心の中では腕の傷は今でも
消えずに残っているようだ。言ってやろうか、捲簾。あれは治らない。
貴様だろうが私だろうが、出来ることは二つだけだ。
嫌になって見捨てるか、傷に負けてしょっちゅう熱を出す天蓬をそのまま
受け入れて認めてやるかだ。他に選択肢は無い。
それが、私が何百年も掛けて何とかしようとした結論だ。」
捲簾は黙って聞いていたが、幾ら何でもそれは無いだろうと思った。
「 治るさ。俺だって何度も負傷している。」
「 妖怪にやられて ・・・ だろう?」
「 天蓬のは違うのか?」
「 やったのは当時の上司たちだ。天界人の。」
「 何 ・・・?」
「 同胞にやられたんだ。その時に、自分と一緒にいた部下も失っている。
天蓬自身はその時、殺されるよりも遥かに酷い目に遭った。
手錠代わりに刀で腕を刺し抜かれて、引き立てられていったということで、
相手がどのように天蓬を扱ったのか、見当は付くだろう。
その後、廃人同様にされてゴミみたいに打ち捨てられていた天蓬を、私が
探し当てたんだ。
連れて帰って何年も世話を見ていた。その間中、殺して欲しいとせがまれ
続けていたがな。
話してやれるのはそれだけだ。それ以上は天蓬が打ち明けたくなった時に
本人から聞け。
だが、もう分かったろう?天蓬が私にだけ甘える理由も、何もかも。
天蓬には私が兄で父親で友人で、・・・ 何より今生きている理由でもある。」
「 それは ・・・。」
何かあった男だとは思っていた。
覚悟も決めて背負い込んだ気にもなっていた。
しかし、これほどまでとは流石の捲簾にも想像すら出来てはいなかった。
「 同胞にやられて、刀で腕を刺し抜かれて、部下を失い、自分は廃人同様
にされたって ・・・。何年も死を願い続けたって ・・・。」
動揺からただ、今聞いた事実を鸚鵡返しに並べ立ててみる。
その様子に多少は同情したものの、敖潤にも意味合いを和らげてやる気は
無かった。
「 その部下と天蓬は士官学校の同級生だった。天蓬の出世が異様に早く
て、親しかった同級生の上官になっていたんだ。気の良い男で、そいつは
それを喜んで受け入れていた。だから、その時も庇おうとしたようだ。」
「 それを殺された?」
「 ああ。目の前でな。・・・ 長い間掛かって傷は一応治したが、腕の傷だけ
が消えないのは、天蓬が両腕を刀で刺し抜かれて捕えられたのを見て、
止めようとしたその男がその場で殺されたからだろう。
つまり、その男が生き返らない以上、天蓬の怪我も永久に消えない。
・・・ 貴様が昨夜知らされた腕の傷跡は、天蓬には見え続けるし、痛みも
伝え続けているようだ。時々熱も出す。その熱は測れば第三者にも計測
出来るものだ。つまり、現実だ。」
「 そりゃ、そこまでされたら、確かに ・・・。有り得る ・・・ かもな。」
捲簾が唸るように同意した。
「 だから言ったろう。お前には無理だ。背負い込めないと。」
「 いや、だからそれは ・・・。」
無理だとは言って欲しくなかったが、はっきり無理では無いと言い切って
良いかどうかが分からない。
それにしても、言っている敖潤自身が何故背負い込もうとする?とも思う。
「 お前も知っているだろう。私が仕事以外の面では全面的に天蓬を庇って
来たことを。今の所、あれが独立出来ているのは仕事の面でだけだ。」
「 うん?・・・ ああ。」
「 それでも、傷は消せなかった。表面上の方ではない奴はな。」
「 では、何故あんたはそれでも天蓬が良いんだ?」
「 何故って?」
「 何故見捨てない?」
「 あれの魂が好きだから。そして、傷を負っていても尚、値打ちのある奴
だから ・・・ だが?」
僅かな躊躇いすら見せずに、敖潤はあっさりと言ってのけた。
そうだ、こいつにはそれが出来る。
恐らくは、その中には例え他の男に惚れていても、などというとんでもない
条件も入ってしまうのだろう。それが敖潤なのだ。
「 ・・・ そうだな。本当にその通りだ。」
捲簾は呻いた。
「 俺にも、幻の傷に悩まされていようが何しようが、あいつは見放せない。」
そのまま、ふらふらと立ち上がり部屋を出て行く捲簾を、敖潤は見送ろう
ともせず、机に肘を付いたまま眺めていた。
結局こうなったか ・・・ うんざりしたように呟く。
その時、出て行き掛けていた捲簾が戻って来た。
「 あと、一つだけ。」
今度こそは捲簾が天蓬が拉致された目的を聞き出したくなったかと、身構
えた敖潤はつい先回りをしてしまった。
「 連れ去られた後の天蓬に何が起きたか、ならお断りだ。先程も言った
ように、教える気は無い。私が墓場まで持ってゆく。」
「 いや ・・・。何人知っているんだ?その話。東方軍の古参なら知っている
話なのか?少なくとも俺の居た時には、そういう話は影も形も無かったが。」
そのことか、と思った。どうやら本気で見捨てられぬらしいな。
まだ先々世話を焼きたがっていて、必要な情報が欲しいのだろう。
「 軍では私と貴様だけだ。貴様も内容は知らんし。あとは事件を記録から
削除した観音と私の父王。側には居たが金蝉には、天蓬が大怪我をした
としか知らせていない。4人だな。」
「 4人だけだと?」 捲簾が不信感も顕わに聞き返した。
「 加害者本人が知っているだろうが。」
「 公式にはそのような上官が軍に存在していたという記録は残っておらん。」
敖潤の不機嫌は今や全開である。
「 存在すらしなかったというのか。」
「 悪いか。どうせ何の益にもならん連中だ。」
どうしてもその部分の説明は聞けそうになかった。
しかし、同じ東方軍に配属されていた時期のあった捲簾が、全く噂を耳に
していなかった理由だけは理解出来た。
「 分かった。世話になったな。」
仕方なく捲簾は、もう一度戸を開け部屋を出ようとした。
「 そう思うのなら、もう来るな!」
ブン!と捲簾の顔の直ぐ横を文鎮のようなものが掠めた。





自室に戻ると天蓬は捲簾の寝台にうつ伏せになって眠っていた。
昨日の件で、今日は非番である。
「 天蓬 ・・・?」
捲簾は優しく呼び掛け、呼び覚まされて不安げに身体を震わせた天蓬
の背中をさすってやった。
「 もう一度眠っても良いから一度起きてくれ。食事を取るんだ。」
「 要りません ・・・。」
起き上がりはしたものの、それどころでは無かったのだろう、掠れた声で
それだけ言った。
「 では、コーヒーだけでも。水分だけでも取るんだ、天蓬。」
捲簾がカップを口元に押し付ける。
「 自分で飲みます。」
手を放してやると天蓬はマグカップを両手で重たそうに持ち、渋々コーヒー
を口に含んだ。
「 苦い ・・・。何です、これ?」
「 何時ものコーヒーだが?お前疲れて味覚が変わっているな。大丈夫か?
点滴に変えてもらおうか?」
「 ああ、いや ・・・ 自力で飲みますから。」
医療行為の名を出しただけで、天蓬は無理矢理コーヒーを飲み始めた。
半端な苦さではないだろうに、そんなものがコーヒーだと信じられるほど
気分が悪いのか、余程軍医に見せるのが嫌なのか。
やらせている捲簾も呆れて見ていた。
「 飲み終えました。これでいいですか?」
そう言うと立ち上がろうとした天蓬だったが、直ぐに崩れ落ちてしまった。
「 すみません、歩けないようです ・・・。」
「 いいから我慢せずに、もう一度寝ろって。」
「 そうするより他にないみたいです。」
諦めて寝台に戻る天蓬に手を貸してやる。
途中、ふいに捲簾が天蓬の身体をきつく抱き締めた。
事情を知って不憫なと思う気持ちが募っていた上、今しがた一服盛った事
に対する罪悪感から気持ちが妙に昂ぶっており、実際に力の弱った天蓬を
目の当たりにして欲情してもいた。
「 朝から ・・・?」
弱っている時には徹底して容赦され続けて来た天蓬は怪訝そうにして見せ
たが、捲簾が優しげな表情を浮かべていたため、特に嫌がらなかった。
「 うん。お前は動かなくて良いから。・・・ ただ、聞かせて欲しい。」
寝台に戻されながら天蓬が不安げに訊き返す。
「 何をです?」
「 お前、腕を刺し抜かれて連れ去られてから何をされた?」
天蓬は一瞬驚いたように目を見開いたが、直ぐに観念したのか目を閉じた。
「 興味を持たせてしまったのはボクですね ・・・。」
「 興味なんかじゃない。信じろ。お前の荷物は重過ぎるから、半分背負っ
てやりたいだけだ。」
「 背負えませんよ。ボク自身がとうに押し潰されています。」
「 何があった。」
天蓬は暫く躊躇っていたが、捲簾の胸に手を着くと囁くように言った。
「 ねえ、捲簾?それを打ち明けたら、ボクの願い事も聞いてくれますか?」
物静かで、息の音だけのようでありながら、妙に甘く響く声だった。
声に釣られてという訳でもなかったのだろうが、捲簾はつい簡単に承諾して
しまった。
「 うん?願い事とは珍しいな。いいぞ、何でも聞く。」
「 誓えますか?どんな事でも拒否しないと?」
「 ああ、何でも。お前はこれまでも何も願わなかったしな。」
「 約束、破らないで下さいね。引き換えに話すんですから。」
天蓬は悪戯っぽく念を押した。ちょっと骨の折れる願い事である様子だ。
どうせ願ったことすら覚えていられないのだろうが、それは構わないだろう。
捲簾の側で約束を果たしてやれば良いことだ。そう思った。
「 ああ。」
頷きながら寝台に寝かせ直して、着て寝ていた下着を剥いだ。
天蓬は為されるが儘に捲簾に身を任せていたが、やがて途切れ途切れに
ではあるが話し出した。
「 基本は貴方が今しようとしているのと同じことです。容赦は全く無かった
ですし、ボクが楽しむ余地など有りませんでしたが。」
「 強姦?」
「 強姦と呼べるかどうか ・・・ 排泄じゃないのかな。」
天蓬がぞっとする台詞を吐いたが、捲簾は咎めなかった。
普通口にはしないのだろうが、そういう行為が相手に対する思い遣りを一切
欠けば、そうならざるを得ないのも事実だ。
「 相手は天界人だったんだろう?」
「 人間です。地上でボクを見掛けたという ・・・。」
「 人間と?」
天界軍の上司に襲われ拉致されたと思っていたが、違っていたのか。
しかし、そうなると天蓬には益々生きて帰還を許される望みが無い。
まさか、最初から永遠に亡き者にする気で ・・・?と疑い始めた時、天蓬が
捲簾の内心の声に答えるように自分から引き取った。





天蓬の話は遠い昔に遡る。
捲簾が入隊し、全くの駆け出しとして下級兵士の職を得た時期の少し前に
当たったが、その頃既に天蓬は新人の士官として活躍中であったようだ。
地位に関係無く見た目で年下に見ていた天蓬がどうやら自分より少々年上
であったことを捲簾は初めて知った。
当時天蓬は軍師の仕事だけをしており、幕僚で戦術に専念していたが、
一見大胆でありながら各部隊の性質を綿密に見極めたその作戦は、評判
も然ることながら、寧ろ実際の戦功を多く勝ち取っていった。
その所為か出世は異様に早く、士官候補生から少尉として東方軍に入隊
した天蓬は、程なく少将にまで駆け上がっていた。
容貌と姿付きに対する邪推も、出世の早さに対するやっかみも多かったが、
どこからとも知れぬ庇護の手が常に天蓬を護っていた。
そこで、軍師ならというので、剣や体術の試合を挑んで鼻を明かしてやろう
と仕掛ける者も出たが、天蓬は最初から戦闘にも秀でており、その点でも
一歩も譲らない。
次第に、あれは美しい容姿をしているが、闘わせれば鬼神のようだという噂
が広まり、その後は外野から難癖を付けられる事も少なくなってはいた。
それでも自身の上官にも妬みを受けていたことで、やはり何かと不都合も
多く、通常通る筈の案件を何度か撥ね返されるという経験をして、行き詰ま
りを感じさせられる日々であった。
そんな折、当時の東方軍の最高位にあった男から食事に招待され、その
後にお決まりの申し出を受けた天蓬は、何を思ったかそれを受け入れてし
まったのである。
常々観音の後押しに遠慮を感じていた天蓬にしてみれば、負の慣習として
昔から存在するその手の代償を支払う方が、却って潔い気がした。
本来の自分の家柄であればそれで当然であったろう、という思いが何処か
にあっての決心だったとも言える。
最高位と関係が出来たことで、天蓬は一気に自分から最高位までの中間
の嫌がらせを排除してしまった。
ただし、問題が一つ残った。
その最高位だった男が、天蓬の予想を超えて乱暴で無慈悲だったという
点が計算違いを引き起こしていた。
紳士的だったのは最初の招待だけで、その後には優しさの欠片も見せない。
天蓬との関係も自身の自由に出来る玩具以上のものではなかった。
それでも、そういう男だからこそ誰もが遠慮していたこともあって、天蓬の
立場は安定し、天蓬も大望を果たすための少々の代償だと納得して、その
関係を続けた。
そもそもその男が最初の相手であった天蓬には、当時の自分がどれほど
酷い扱いを受けているのかが理解出来ていなかった、という事情も手伝って
いただろう。
全てを受け入れると決めた天蓬は、生来の意地っ張りから、苦しさは一切
表に出さなかった。
不満があっても、その不満を仕事の成功で晴らすようにして耐え抜いた。
成績は上がったが、気持ちの何処かが疲弊して悲鳴を上げ続けている。
そして、子供時代に引き取って手許に置き、天蓬の内面までをも良く知る
観音はそれを見逃さなかった。


自身の手で原因を調べ上げた観音は事実を知ると、懇意にしている竜王
に相談を持ち込んだ。
実力の有る軍人に理解のあった竜王は観音からその戦績を聞くと、天蓬
を気に入り、屋敷への出入りを許した。
余りの格の違いに最初気乗りしなかった天蓬だったが、その時偶々居合わ
せた息子の敖潤から朴訥としてはいたが誠意の有る優しい言葉を掛けられ
て、僅かながら心を開いた。
何度か敖潤に会って話すうちに、天蓬は漸く現在の不自然な状態に気付
いて、次第に考え込むようになっていった。
若く未熟であった天蓬には、その変化を心の内に隠し切る事など出来ない。
やがて、最高位の上官は、天蓬が以前のようには納得して抱かれている
訳でないことに気付いた。
その時、上官の選んだ解決法はもっと愛情を注いでやる事ではなく、自分
に不満を持ったらしい天蓬を叩き潰してしまうことの方であった。
天蓬に袖にされて恨みを持っていた部下 ・・・ とは言え天蓬の上官である
が ・・・ 数名と組んで天蓬を地上の人間に売り渡そうと企んだ。
何度か人間の方から譲って欲しいと頼んで来ていたのを、まだ利用価値が
有ると考え、拒否していた取引であった。
・・・ そしてある夜、天蓬への襲撃と拉致は実行された。
腕に覚えのある天蓬ではあったが、親しくしていた元同級生の部下と共に
との出頭命令を受け、出頭したところをいきなり部下を捕えられて、刀を突き
付けられた部下を人質に取られてしまっては、抵抗も出来ない。
その様子に気を良くし、益々残忍になった上司たちは天蓬の両腕を刀で
貫いて引き立てて行こうとし、身をもがいて止めようとした部下を殺害した。
こうして普段から鍛錬し、戦闘技術にも磨きを掛けていた筈の天蓬は、上司
という立場への一応の信頼感と友情に負ける形で易々と捕えられ、大怪我
を負わされて地上に引き摺り下ろされ、卑しい欲望に醜く舌なめずりをする
人間達に投げ与えられたのであった。


「 当時の上役が地上で拵えたコネです。何人かの金持ちが天界人に通じ
ていたものですが、それがボクを見掛けて気に入った ・・・。で、金と引き
換えに売り渡されてしまったんです。」
天蓬がそこに至るまでの経緯を語ると、捲簾はその惨さに溜息を吐いた。
「 酷いことを ・・・。売るもクソもお前は誰のものでもないだろうに。」
「 不当にね。でも、不当に売り渡した場合、もう偶然にも帰って来ることは
望まれないということでもある。・・・ そうでしょう?」
天蓬が瞳に暗い色を浮かべた。
まさかどころではないということか、と捲簾は歯噛みしたが、過去の出来事
でもあり、余り感情を見せたくないと、ただ、「 ああ ・・・。」 と相槌を打った。





天蓬は続けた。
もの扱いをし、金で買い取ったにしても、仕打ちは必要以上に惨かった。
最終的に殺すと決めている者を抱く訳であるから、遣り方も生かしておこう
とする者にするのとは、自 (おの) ずから違う。
刀で腕を刺し通すという拘束の仕方も異様だったが、引き渡された先でも
犯すというより、壊して楽しむといった種類の扱いを受けた。
人一人丸ごと潰してやろうとしているのが、されている天蓬にもはっきりと伝
わり、屈辱感にも苛まれた。
それは比喩ではなく、身体にもそうされたという意味である。
つまり、その一つ一つが情交と言うより拷問に近いものであった。
時間の経過と共に天蓬は、身体に拷問の跡を増やしてゆき、美しかった
身体がボロ布のようになってゆく惨めさにも苦しんだ。
それでも、その場を逃れて元の天界に戻り、傷を癒すことに希望を繋いだ
天蓬は、発狂もせずに正気を保ち続けた。
しかし、日ごとに怪我が重くなってゆくと、人間達は自分たちがしたことで
あるにも関わらず、美しさを失くしてゆく天蓬に飽きてき始めた。
その後も、お零れと称して部下たちにも抱かせ、天蓬の苦痛は続く。
人の出入りで感じた日数はひと月ほどだったろうか、ある日、怪我が重症
化して一部が膿み始めていた天蓬に、お前はもう用済みだが生きて返して
は迷惑の掛かる人が居るから ・・・ という残忍な決定が言い渡された。
しかも、ただ殺しても面白く無いと、おかしな盛り上がり方をした人間達は
天蓬の身体中に焼き鏝を当てて苦しむ様を楽しんだ。
苦しむ表情が愉快だと、顔はほぼ最後までそのままにしていたが、最後
には顔にも焼き鏝を当て、天蓬は魔物のような姿にされた。
気丈な天蓬も事此処に至っては、流石に希望の持ちようが無い。
一縷の望みに縋り付いて長く耐え抜いてきただけに、最後の希望を手放し
た時の絶望感は大きかった。
既に虫の息であった天蓬は近くの谷に放り投げられたが、全てに絶望して
おり、最早、掴まろうとする手を伸ばすことも無く、真っ直ぐに落ちてゆき、
谷底に叩き付けられた。

・・・ To be continued.






















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   ―― 傷 跡 ――

   2007/11/24
   天蓬心理分析 ( 独自解釈 ) 実験中
   written by Nachan

   無断転載・引用は固くお断りします。

   ブログへのリンク
   http://akira1.blog.shinobi.jp/

   素材提供:Heaven's Garden
   http://heaven.vis.ne.jp/










NOTE :

一応、これまでの天蓬の謎の部分の解答編です。

歪んだ話を書いていますね、私。内容は大きく変えていますが、元ネタは、
1989年の 「 東京女子高生監禁・コンクリート詰め殺人事件 」 です。
この事件を知った時には心の底からぞっとしました。
親兄弟も知り人も居らず、自身を陵辱し、嘲笑い、罵る者たちだけが取
り囲む中で死んでゆく気持ちというものは、どれほど口惜しかったろう、
と思ったものですから。

しかし、人間はその犯人以上に残酷になれるということを後で知りました。
その後、某産業経済系新聞に、被害者を徹底的に罵り、加害少年側を
あれこれ弁護する声が毎日紹介され続けたからです。
犯されているのだから、楽しんでいた 「 はず 」 だ、としか考えられず、
人間の死を、被害者を卑しめることによって、「 人の死では無かった 」
と、言い放つ人間のいることに初めて気付きました。