―― 愁 嘆 ――

〜 心模様三者三様 〜












水鏡のような水面 (みなも) が月の投げかける光を反映して、辺りの森
からその場所だけを浮かび上がらせている。
澄んだ湖水の中程に、全てを脱ぎ捨てた天蓬が、裸体をゆったりと浮かべ
ていた。
浮力の不足から、水面に出ているのは顔と肩の辺りだけだったが、それ
でも、その凄艶な白さが夜目にも際立っている。
腰の辺りに伸ばした手を軽く動かすだけの背泳ぎで、泳いでいるという
よりは、月を眺めながら水の中で休んでいるといった風情である。
人が見れば優雅な景色であったろうが、天蓬の内面はそう穏やかに水
を湛えているといったものではない。
「 分かって貰えないとは覚悟していたものを ・・・。」
人気 (け) の無い森で、水に庇われながら月に話し掛けることなら出来る。
だのに、捲簾に直接気持ちを告げてやることが天蓬には出来ない。
分かって貰えぬと決めている自分を見せること自体に躊躇いがあった。
「 何で今回に限ってそんなことが ・・・ ?」 と天蓬は思う。
いや、それどころか、こうして自分自身に対して躊躇いを感じ、自問自答
しているということにすら、誰にという訳でもなく憚られる。





その日の昼過ぎ、捲簾が勢い良くドアを開けると、最初の部屋はもぬけの
空で、代わりに奥に人の気配がした。
奥に居るのか?と、そちらを覗くと、天蓬が鋏を持って髪を切っている所で
あった。
「 え?お前、そんな風にして髪を切るのか?」 と尋ねると、「 決まっている
でしょう?」 と澄ましている。
鏡も見ずに両側から2・3度鋏を入れて裾を落とし、最後に伸び過ぎている
前髪を一気にシャキリと断ち切った。
「 完了!」
最後まで鏡を見ることもないまま、自分が前を見やすくなったことに満足
して、既に鋏を仕舞おうとしている。
「 それだけなのか?」 と捲簾が訊く。
「 勿論。」
という散髪の短さに合わせたかのような簡単な返事を返して寄越した。
「 何だか好い加減過ぎないか?俺が揃えてやろうか?」 と持ち掛けて
みるが、「 結構です。これで充分ですから。」 という返事であった。
まぁ、ヘアスタイルは元々目にしていた訳で、そこから逆算してみても手
を掛けたものだとは思っていなかったが、実際に見てみて余りの杜撰さに
改めて驚いた。
「 何だってその ・・・ 他の奴みたいにしないんだ?」
無駄という気がしなくもなかったが、一応訊いてみる。
「 他の奴みたいにって?」
「 女官にきちんと切り揃えさせるとか、結ってみるとか。」
天蓬は、それね、という顔をして溜息を吐いた。
「 以前そうしていましたが ・・・ 止めたんです。何かとトラブルも多かった
ですし。」
「 トラブルって ・・・ モテ過ぎるとか?」
短い沈黙があって、その後、
「 お茶を入れて貰えますか?」 と天蓬が話題を変えてしまった。
普段、自分からお茶など要求したことが無いだけに、意図が丸見えだ。
誤魔化しやがって、という捲簾の内心の不満が聞こえでもしたかのように、
天蓬は茶を入れようとしている捲簾に後ろから声を掛けた。
「 モテタなんて、そんな良い時期はありませんでした。もう持ち出さないで
貰えませんか?」
容姿に関しては過去に遡ることがどうしても鬼門である様子だった。
捲簾はそれ以上訊くのは無理だと感じた。
「 ほら、お茶。」
天蓬に茶を出して、ついでに自分のも入れて横に立つ。
「 捲簾 ・・・。」
茶を受け取った天蓬が湯飲みを持ち上げ、茶に口を付けながら、改めて
呼び掛けた。
「 ボクは明後日から休暇を取ります。3日間留守にしますから、後を頼み
ますね。」
「 ふーん?」 と捲簾。「 で、何処か行くの?」
社交辞令のつもりで投げ掛けただけの何気無い質問であったが、次の
瞬間、天蓬から返された答えは捲簾にとって寝耳に水であったと同時に、
悩ましい内容でもあった。
「 ボクの休暇の行き先は大抵同じなんですよ。敖潤閣下が毎年地上の
領地を見に出掛けられるのですが、ボクもそれに付き合うんです。」
「 え ・・・?」
捲簾は唖然とした。
「 視察と称してはいますが、お祭りのようなものなので、ただ領民の歓待
を受けるだけでいいんです。」
捲簾の心情など全く意に介さぬ様子で天蓬は説明する。
「 だって、敖潤と泊まるんだろ、その ・・・ 地上の領地とやらに。」
「 遊びに行く先の無かったボクを、それじゃあんまりだからと気遣って、
ある年から毎回連れて帰って下さるようになったんですよ。
ボクには実家とかありませんからね。」
「 だって、今年は俺がいるだろうに?」
捲簾は既に切れ掛かっている。
それでも、天蓬はただ、「 だから ・・・?」 と冷静に問い返した。
「 あいつは事情を知っている癖に今年もお前を誘ったのか?」
「 そりゃ誘いますよ。元々、貴方の考えているような目的での同行では
無かったのですから、今年に限って誘うのを躊躇う理由も無いんです。」
捲簾は苦虫を噛み潰したような顔をした。
その様子が何やら意地悪気で視線が痛い。
天蓬は暫くその視線に耐えていたが、やがて切り出した。
「 捲簾 ・・・ ?」
「 うん?」
「 やっぱり、お願いしましょうか。髪の毛、綺麗にしたいので毛先を整えて
くれますか?それとも、結ってみようかな。」
言うと、捲簾が天蓬を睨み付けた。
「 そのままでいい。坊主にでもするのなら手伝ってやるが。」
天蓬は声を立てて笑った。
その様子に、捲簾もどうやら自分の心配するような内容でも無さそうだと
納得はしたが、理屈で分かっても感情に納得しかねぬ部分が残る。
天蓬のふざけた態度に一頻り付き合いで笑いはしたものの、やがて表情
を戻し、急に真顔になって尋ねた。
「 それ、断われないのか?お前の方からお断り出来んのか?」 と。
すると相手は視線を上げ、少しは考える仕草をしてから、
「 一応、確かめてはみたんですけど ・・・。」 と答えた。
「 え?」
怪訝そうな声。
「 お伺いは立ててみました。今年は既に事情が変わっていますが、それ
でも宜しいのでしょうかと。」
ほう?と少しは気を良くしてみる。普段が素っ気無いだけに、これは思い
掛けぬ収穫というものかも知れない。
結果はどうあれ、それを敖潤に正面から訊いてくれている点が嬉しい。
「 俺のこと思い出してくれたんだ ・・・。」
「 ええまあ ・・・。」
天蓬は頷いた。
「 『 何か不都合でも?』 と問い返されて、何も言えなくなりましたが。
『 私が連れて行くのと引き換えにお前に何か要求したことでもあったか。』
ってそう言われてしまって ・・・。」
確かにその通りではあるのだろう。
敖潤が何の見返りも無しに、ただ余り遊びに行く先の無い部下を領地に
誘っていたというのは有り得る話で、天蓬が怪我をした際にも敖潤は
とっとと自分の別荘に連れて行って養生させた。
それにしても ・・・ と捲簾は思った。
寛大過ぎる敖潤の態度と、その寛大さを最初から分かって振舞っている
かのような天蓬の態度が腑に落ちない。
以前にも何度か感じたこの違和感については、一度問い質してみたいと
思っていた。
そこで捲簾は、「 なぁ ・・・?」 と切り出した。
「 お前って、敖潤の何なんだ?」
質問を受けて天蓬は顔を上げると湯飲みを置いた。
暫し躊躇う振りをしてから、姿勢を正し、
「 ボクは元々敖潤閣下の愛人だったんです。」
そう告げると、わざわざ捲簾に顔を寄せて目を覗き込んだ。
流石の捲簾もこれには驚いた。
思わず目を剥いて固まってしまっていると、覗き込んでいた顔が急に相好
を崩し、「 ・・・ とかいう答えを期待しているんですか?」 と言葉を継いで
ニヤリと笑った。
「 お前は ・・・。」
捲簾が怒り掛けたが、その時には天蓬は既に顔から人の悪そうな笑いを
消しており、急に萎らしくなって、
「 敖潤閣下はボクの兄のような存在です。」 と言い直した。
「 ボクは最初、敖潤閣下の父上に紹介されて、閣下は父王から西方軍の
責任者の任に着き、同時にボクを引き取って面倒を見るようにと言い付か
ったんです。父王を通した話だったので、弟のようにして貰っていました。」
どうやらこれが真相らしい。成る程と捲簾も納得した。
「 ふーん?じゃぁ、お前と敖潤って、同時に西方軍に来たってこと?」
「 ええ。」
そう言われても、突っ込みたいことは山ほどあった。
敖潤はお前をものにしたいとはっきり俺に言ったんだぞ、とか、今でもお前
を見る目付きは絶対普通じゃない ・・・ とか。
それでも、その前に聞いた話と考え合わせると、以前に困った立場に追い
込まれていた天蓬を見かねた観世音菩薩が西海竜王に相談し、遣わして
貰ったのが敖潤という勘定になり、敖潤は天蓬の絶対的な保護者という
ことである。
今、話している雰囲気からも天蓬が敖潤に独特の甘えを持って接している
事が窺い知れた。
こいつは自分が既に捲簾に手を着けられたという話を敖潤に持ち込んで
もいる。
少しでも不信感のある上官になら絶対に出来ない告白というより、生半可
に気に入られていると信じている上官にこそ、最も隠しておきたいと考え
るような内容だが、天蓬は敢えて打ち明けている。
となれば、余程全幅の信頼を置いているようで、それをこれ以上侮辱する
ような言い方は許されそうに無いと感じ、捲簾は旅行の阻止を断念せざる
を得なかった。
ただ、その大き過ぎる信頼感に別の疑問も湧き上がってくる。
「 なぁ ・・・ 天蓬?」 捲簾は訊いてみた。
「 もし、俺より先に敖潤がお前に求めていたら ・・・。」
「 敖潤閣下のものになっていましたよ。勿論。」
質問を最後まで言わせもせず、天蓬は簡単にそう答えた。
「 あの時点では特に恋愛関係とか考えていませんでしたし、単にお礼に。
それに、ボクには敖潤閣下のように自身の領地なんかが有るわけでは
ないので、今持っている軍での地位が全てですから。
それを守りたいと考えれば、当然受けたでしょう。」
天蓬の気性を分かってはいたつもりであった。
こんな質問くらいで自分の方に負い目を持つなどという可愛気のある奴
では無いとは思っていたものの、それにしても ・・・。
当然と言うのか、こいつは!
筋は通っているのかも知れないが憎たらしいな、と思ったその時、更なる
疑問も湧き上がって来た。
・・・ ということは、まさか ・・・?
「 じゃぁ、今ならどうなんだ?俺から離れて自分と居ろと命じられたら?」
天蓬はこの質問にも残虐なまでに即答を寄越した。
「 応じるでしょうね。」
挑みかかるような答え方であった。
「 え・・・?」
驚いて、相手を見詰めた捲簾であったが、天蓬は目も逸らさない。
「 それがどうかしたんですか?」
静もった碧の目をこちらに向けている。
まともに目を射て来る硬質なその態度につい怒りの火が灯った。
「 お前は・・・。」
捲簾は思わず天蓬の肩に手を掛けた。
そのまま引き寄せてもう一度殴ってやろうかと本気で思ったが、天蓬を
見ると、またしてもそれを逃れようとせず、ただ真っ直ぐ前を見て、襲って
来るであろう衝撃に備えようとしている。
捲簾は動きを止めた。
「 殴ればよいものを。」
捲簾の拳の行方をまんじりともせず見据えたまま天蓬は呟いた。
もう暫くそのまま待ってみたが、捲簾が手を掛けないのを見定めると、天蓬
は自分の部屋を明け渡したまま、何処かに消えて行ってしまった。





ぱしゃり ・・・ と水音を立てて、天蓬は大きなストロークを加えると、岸辺に
近いところまで移動し、そっと足を下に着けてみた。
立てるところまで戻って来ていると知って、水の中に身体を起こして立ち
上がる。
岸に向かってもう数歩踏み出すと足元がしっかりして、胸から上が水面
から上に出た。
そこで立ち止まり、ただ何となくどちらにも進めない気がして、その場で
裸身の両肩を自分で抱いた。
どうしても上向かぬ視線は水面を眺めたきりで、水面から反射した月光に
俯き加減の顔を青白く照らされ、表情が不安げに揺れている。
途中までは良かった ・・・ と天蓬は先の捲簾との会話の記憶を辿って
思った。
途中までは時折理不尽な嫉妬を見せる捲簾の様子が可笑しくて、その上、
自分が大切にされている様に感じられて内心満更でもない思いがした。
だが、つい調子に乗ってもう少し焦れる捲簾を見ていたいなどと考えた
結果、墓穴を掘ってしまった。
それは自分が、今一番訊かれたくない事だったろう。
『 じゃぁ、今ならどうなんだ?俺から離れて敖潤と居ろと命じられたら?』
などというのは。
それは、ちゃんと俺だけを選んでくれているのだろうな?と天蓬に迫る
確認の文言ではないか。
しかも、腹立たしいことに、既に自分は捲簾を選んでしまっているのでは
ないかという不安まであった。
未だにそれをそうだと認められる度胸など無い。
これまでの道程のどの時点かで、既に誰も愛さぬと決めていた筈だった。
その分、誰にでも笑顔を向けられ優しくもなれた。
愛さぬという前提の上になら、身体も比較的気軽に与えられた。
気性の激しさから、実際に求められるものの大半を弾き返してしまう癖が
あって、実のところその経験も少なかったが、さりとてその結果から周囲
が推測する程には天蓬は、拒むということに拘ってはいなかったのである。
しかし、そうした割り切り方も、捲簾と ・・・ となると途端に怪しくなってくる。
元々が何を気に入られたかすら良く分からぬ付き合い方であった。
何となく気が合って、その人物が思いの外自分に深く関わって来た。
欲の出た天蓬は更に深い絆が欲しくなって、過去の記憶から大抵の者が
自分に一番強く望んだものを捲簾に与えようとして失敗し、全てをぶち壊し
そうになった。
捲簾には身体の繋がりに優先されるべき何かがあるらしい。
分かりたくても分かれない。情念は天蓬にとって最も縁遠い概念である。
分かり切らない概念に、求めてなお求め切れぬ気持ちに、情けなくなって
ただ泣いた。
通常、矢で射抜かれても、ふん!と鼻を鳴らし、鏃に付けられた逆の反り
返しに己が肉を持ち去られるのも構わず、それを引き抜いてしまうような
男が涙を流したのだから、敖潤も捲簾も定めし仰天したことだろう。
幸運にも、それはたまたま二人ともから好意的に解釈されて、考えも及ば
なかった程に手厚い保護を受けた挙句、いたわられ、許された。
だが、実態が有るのだか無いのだか確信の持てない絆だけがそこにあり、
しかもその頼りない絆が日に日に自分にとって重要な意味を持ちつつある
と気が付いたとき、天蓬の心は穏やかでは居られなくなっていた。

せめて捲簾が見た目通りに、もう少しガサツで身勝手で性的にも自己
満足だけを求めるような性質であってくれたら、それに応じられるという
自負だけでも自分は何がしかの手応えを得られたことだろう。
しかし、捲簾には表層意外に乱暴な点すらなかった。
己を抱いた時のあの気遣いよう ・・・ あとで思い出すと恥ずかしくて顔から
火が出る思いだった。
本来そのように出来てはいない筈の身体が捲簾の手に掛かると、簡単に
手懐けられ、従えられて捲簾を恋しがった。
身を守るものを全て引き剥がされて、それでも、さあ自分自身の魅力と
才覚で勝負してみろと迫られているような気分だったが、勝算が見当た
らない。
この数週間でボロボロニ引き裂かれたプライドだけを抱えて、天蓬は途方
に暮れ、戸惑っていた。
放っておいて欲しかったのに ・・・ と同じことを何度も悔やむ。
才気だけを強引に振り回し、独りぼっちで独善的で傲慢だった元の自分に
戻りたい ・・・ 天蓬は心細くなってそう願ったが、後戻りは出来そうもな
かった。





取敢えず馬鹿な真似はしそうにないな、と敖潤は安堵した。
目の前に繰り広げられる妖しげな水浴の景色を眺めながら、それでも
敖潤は天蓬の行動に冷静な観察を加えていた。
一時間ほど前、敖潤は自室の窓から歩いてゆく天蓬の姿を見掛けた。
拘束時間を過ぎていたとは言え、しょげ返った様子で兵営を出て、暮れ
掛かった敷地外に出て行こうとする姿は異様であり、その行き先も都城
(とじょう) の城郭外である様子なのに不審を持った。
その先には手付かずの森や岩地が広がっているのみだ。
ただ、敖潤には城門の外の世界について、天蓬から多少聞かされた覚え
があった。

天蓬は父西海竜王から託され自分の支配下に入っただけに、敖潤のこと
を常に 「 特別な上官 」 として慕ってくれているようだった。
だから天帝のことを侮蔑を込めて 「 あの御老体 」 と呼んでも、敖潤の
ことは本人の耳に届く届かないに関わらず常に敖潤閣下と呼んでいる
らしいことが、巡りめぐって本人の耳にも入ってきて、悪い気がしなかった
ものだ。
他の権威に対してとこぎり無頓着であるだけに、自分にだけ敬意を払う
態度を可愛い奴だと感じた。
頼るべき実家が無さそうなのでたまには気晴らしにと、自分の領地の視察
に誘うと、恐縮しながらも何の警戒もせずに付いて来た。
軍から引き離した時の天蓬は、軍を率いて戦闘を指揮しているのは誰か
別の者だとでも言わんばかりの大人しさで、敖潤の陰に隠れるようにして
祭りや歓待の席に参加するのだが、際立った容姿の所為もあって、何処
に出しても評判は上々であり、連れて行った敖潤としても鼻が高かった。
陰に隠れたがるような振る舞いをする割には、一度人前に引き出されて
しまうと、没落したとはいえ名家の血筋が顔を覗かせるのか、それとも
名家のただ一人の生き残りとして古の栄光を守り抜きたい気でも働くのか、
その態度は品格高く、正に貴顕の趣きを有していた。

この2・3年地位も上がった天蓬は多少羽目を外した姿を人に見せるように
なり、そうしている時の彼はお世辞にも好ましいとは思えなかったが、討伐
戦の出撃の際には、髪もひっ詰め、軍服も文句無くきっちり着こなして出て
来るとあって、特に不満は無かった。
だが、最近になって自分以外の男に恋愛感情を持ったらしい点だけは、
どうしても戴けなかった。
その上、過去の傷を知っているが故に容赦を与え、もたついていた所を、
その男にひっ攫われる形になったことにもムカついたが、まぁそんなこと
は良かろう。
相手はどうせ無頼漢同様の男だし、そのうち待っておれば傷付いた天蓬
が逃げ戻って来そうな予感があった。
敖潤だけが知る天蓬の闇がいずれ全てを叩き壊すことは目に見えていた。
これまでも。
これからも。
天蓬は誰にも懐かず心を開かない。
天上での時の流れは気が遠くなるほどゆっくりだ。
今熱中している気持ちの邪魔をして恨みを買うよりは、待っていて受け
止める方が得策に思えた。
第一、所詮は同性同士の付き合いで、誰が誰を所有したどうこうにも実態
というものが無い。
自分の目の届くところで泳がせておけばいずれ舞い戻ってくるに違いない
し、そうならない期間も誰に憚ることも無く、これまで通り天蓬を連れ出す
ことは出来そうだと踏んだ。
連れて歩いている間の天蓬とは、元の義兄弟のような関係であり、進展
こそ無いものの、それで本来の姿に戻ったまでのことである。

それが敖潤の天蓬に対する独特の関係であり、それらをもっと短い一言
で言い表すなら、天蓬が何処で何をしていようと敖潤は天蓬を気に入って
いた。
思いは通じているらしかった。
上官だという認識が強いため、接してくる態度は堅苦しかったが、それでも
天蓬は敖潤だけに他の誰にも明かさないようなことをも打ち明けてくれる
ことがあった。
例えば、都城の外にある森に天蓬気に入りの特別な場所があって、その
小さな湖で時折、独りで水浴びしているらしいこともそうであったろう。

敖潤は無理に跡を追うことをせずに、少し時間を置いてから気配を消し
つつ湖を覗きに行って見た。
森の木陰からそっと湖の様子を窺うと、月光を浴びて水に浮かんでいる
天蓬の様子が知れた。
夜目遠目にもそれと分かる白い肌を水に濡らし、濡れた肌に月光を映し
ながら天蓬は考え事をしている様子であった。
やがて岸辺に近付いて来たが、胸の辺りまでを水に浸したまま上がらず、
胸の前で腕を交差させ肩を抱いたまま固まってしまっていた。
何か良からぬことを想像しているらしく、目を大きく見開いて震えている。
それでも、必死で考えを纏めようとしているらしい態度に、呆けてはいない
しっかりした所も見て取れ、馬鹿はしそうにないなと安心だけは出来た。
この前のように殴られてもいない様子に、まあ良かろうと納得しもした。
そのことを確認すると、敖潤は妖精の水浴びを思わせる幻想的な景色に
多少の未練を残しながらも、その場を離れ都城に戻っていった。





暫くそのまま天蓬を待ってみたものの戻らないのが段々心配になって
捲簾は外に出て探し始めていた。
先ずは真っ先にいつぞやの中庭に出てみたが、そこには居ない。
まぁあの時は、眼鏡を壊していてそれより遠くには行けなかった筈だから
今日は兵営を出たのかも知れんなと、建物の外を窺った時、ちょうど敖潤
が都城の城郭外から戻って来ようとしているのを見付けた。
月明かりだけしか頼れなくなる城郭外へ出ていただと?と思った途端、
この時間にそんな馬鹿をするのは天蓬くらいのものだと悟った。
「 敖潤 ・・・ 閣下 」
目が合った敖潤は頗る付きの不機嫌な眼差しで捲簾を睨み付けた。
「 天蓬の所在を御存知の様子で ・・・。」
彼にしては精一杯の丁寧な物腰で問い掛けようとしたが、
「 貴様に教えてやる義理は無い。」 とにべも無く一蹴された。
知っていやがる ・・・ と捲簾は思った。
「 無事であるようですので安心しました。」
「 何が安心しましただ。」 非常にお怒りの御様子だ。
「 要らぬチョッカイばかり出しおって。もし、今度天蓬に傷を付けてみろ。
二度と容赦する気は無い。」
と火でも噴きそうな勢いである。
「 何もしては居りませんが。」 と捲簾。
「 嘘を吐け。天蓬が落ち込んでしまっていたぞ。」
「 本当に何も言っては居りません。」
まさか、あんたと寝るかと聞いたら頷いたので殴りそうになったとも言える
まい、と捲簾は考えを巡らせていた。
その代わりに 「 閣下は明後日、天蓬とお出掛けでしょうか?」 と尋ねる。
敖潤は顔色も変えず、「 それが貴様に何か関係有るのか?」 と答え、
「 もし、その件で天蓬を責めたと言うのなら、捨て置かんぞ。」
と脅すように付け加えた。
「 元からあった恒例行事だ。下司の勘繰りは無用だ。」
「 あ〜、はいはい。」
捲簾がおどけたように言う。
ついでにらしくも無い慇懃な態度も金繰り捨てた。
「 天蓬にはアンタが兄も同然の人らしいですから。」
「 いい気になるなよ。貴様を成敗して弟を慰める役に回ってもいいんだ。」
「 出来るものか。」
捲簾はせせら笑った。
「 そんな兄ちゃんを慕うような天蓬でないことくらい、アンタが一番良く知っ
ているだろうに!」
「 度胸だけは満点らしいが、貴様に天蓬のことなど分からん。どうせ今度
も、どの言葉が天蓬を怒らせ混乱させたかも分からんまま、心配して探して
いた癖に偉そうに言うな!」
売り言葉に買い言葉という奴だが、敖潤はそんな中でも核心には触れ
ていた。
流石の捲簾にもこの一言はズキリと堪えた。
「 天蓬は貴様の考えているような男ではない。」
怯んだらしい捲簾に敖潤が止めの一撃を加えて来た。
「 あれはな、貴様になどどうしようも無い生き物だ。私にとっても同じかも
知れんがな!」





偶然のような気もしたが敖潤に言い当てられたことがズキリと堪えていた。
確かに俺は天蓬を理由も分からず、また彼が元居た薄暗い位置に戻して
しまったようだ。
恵まれていながら気怠る気で、大抵のものが美しいが儚いと表現する
あの自分自身で作ったらしい牢獄に、俺が天蓬を追い遣った ・・・ ?
まさかあれしきのことで?
いや、でもそうなってしまったらしい。
付合いが長く、天蓬が本気で兄のように慕っているという敖潤が頭から
湯気を立てて怒っていた。
前回敖潤と張り合った際、天蓬を負傷させていたにも関わらず、気遣いを
見せた自分に敖潤は簡単に折れてくれた。
ものにするとかしないとか、その辺りに余り拘らず、敖潤には天蓬が笑って
いられたらそれで良いように見える。
その敖潤があれだけ怒っているとなるとこれは ・・・。
やばいぞ、考えろ。何がいけなかった。どの言葉だ?
勿論普通に考えれば、最後に殴ろうとしたのが一番いけなかったのだろう。
でも、あの時はちょっと違っていたと思う。
天蓬は既にその前から気分を害していて、あの時には寧ろ殴れば良いと
言っていた。
怒ったのはその前だろう。すると ・・・?
訊いた時点で既にいけなかったということになる。
質問の時点で怒らせていたとすれば、あの時の答えはどちらだったの
だろうとも考えてみる。
当然に敖潤の方に着く。そんなことも分からないのかという意味か?
それとも、何を情けないことを質問する。捲簾を裏切る訳がないだろうと
いう意味なのだろうか?
いや、それはちょっと有り得ないという気がした。
身体を重ねてからもアイツの態度は余り変わらなかった。
どちらかというと硬質で靡かず、寧ろ意地っ張りになったような気さえする。
あの後も誘えば抱かせるが、向こうから誘って来たことは一度たりとも
無かった。
気に入っていないのだろうか ・・・?
声こそ余り出す方ではないが、縋り付いてくるようなあの態度、決して嫌
がっているとも思えないのに何故 ・・・ ?
しかも、ちょっと間違うとここまで拗れてしまうし ・・・。
要するに、天蓬にとって、身体を差し出すことは気持ちを明け渡すことと、
全く別次元の問題なのかも知れない。
気に入らない奴には触らせもしないのだろうが、受け容れられたからと
いって、心まで許せるほどではないのだろう。
天蓬の心はもっと遠いところにあるに違いなかった。
「 一度抱いたら落とせたの何だのってことじゃないってことか ・・・ ?」
身持ちが硬いというより、心の防御がもっと固いということであって、身体
をガチガチに守ってお高く留まっていた割りに一度落としてしまったら後は
為されるがままという女性に良くあるタイプとは対極の性癖なのだろうと
想像した。
奴の障壁は身体などという陳腐なものを攻めても落とせない。
それなら辻褄が合うと捲簾は一人納得した。
厄介な奴だ。しかし、その厄介な奴の厄介な心がどうしても欲しいとも
捲簾には思えてきた。
そこまで考えた時、捲簾ははっとした。
なんだそりゃ?
これまで考えたことも無かったが、それこそが惚れるということなのか?
天蓬は比較的あっさりと身体を与えて寄越したが、心には触れさせない。
これまでの捲簾は身体を死守する女達を落としては、急に愛想が良く
なって責任とってねとばかりに撓垂れかかって来るそいつらに嫌悪感を
感じ、達成したらお終いという事にして誰とも深く付き合わずに来た。
俺の欲しかったものはこっちだったのか?
そして、これが人に惚れるということか?
その時、不意に敖潤の最後にぶつけた不気味な予言めいた言葉が頭を
過 (よ) ぎった。
『 あれはな、貴様になどどうしようも無い生き物だ。』 何なんだ、その重々
しい言い方は?それではまるで天蓬が怪物か何かであるようではないか?
そうは思いつつも、何故かそれがハッタリとして打ち捨てる訳にもゆかない
真実を指していたような薄暗い予感も拭い切れなかった。
確かに天蓬には何か自分の予想している以上の重たいものを抱え込んで
いる節がある。
これまでに散発的に聞き込んだ事情だけでは説明出来ない何かを感じる。
それを考えると、捲簾は口の中が少々苦くなり始めた気がした。





部屋に灯りが点いたのに天蓬の帰宅を知り、捲簾は強引に押し掛けて
みた。
今日くらいはそっとしておいた方が良いとは分かっていたが、寝食が常に
二の次三の次になり、本の切れ目が無かったというだけの理由で食事が
飛んで、それに腹が減って気付くのでなく、行き倒れて気付くという性癖の
持ち主とあっては、放って置けない気がした。
「 天蓬入るぞ。」
相変わらず鍵の掛かっていないドアを押し開けると、つかつかと中に入り
部屋の主を探した。
天蓬は戻った後、辛うじてシャワーだけ浴びたものの、そこで疲れて精魂
尽き果てたといった様子で、びしょ濡れのまま、ソファに凭れて眠り掛け
ていた。
長く水圧に曝された後で、力抜けしていて声も出ないという風情である。
とろんとした目を少し上げて捲簾を見上げた。
「 怠いんです ・・・。」 と見て分かることをわざわざ言う。
「 殴りたければ殴っていいですから、早く用を済ませて出て行って下さい。」
相変わらずの捨て鉢な文句である。
「 眠りたいのか?」
天蓬がこくりと頷いた。
捲簾は持ち込んだ盆をテーブルに置き、布巾を取り払って中身を見せた。
「 食え。そしたら出て行ってやる。」
「 貴方という人は ・・・。」 と天蓬は搾り出すような声を出した。
「 何だってこんな時にまで、そんなことが自分の義務だと思うのだか。
それがボクを苦しめているというのに ・・・。」
最後の方の言葉は発音が怪しくなっていた。
寝言の一種だったのだろうが、思いがけず本音を聞かされて、その本音
の暗さに凍りつきそうになった。
改めて覗き込むと完全に眠ってしまっている。
捲簾は棚からタオルを取り出して濡れたままの頭を拭き始めたが、余程
疲れていたらしく、天蓬は目を覚まさなかった。

天蓬が気が付いた時には真夜中だった。
掛けられていたブランケットを跳ね除けて起き上がると、髪の毛は乾き、
梳かされて整っていた。
手を遣って撫でてみると、何時も感じる段差を感じない。
不思議に思って見回すと、部屋の隅にあるはずのゴミ箱が妙に真ん中に
出ているのが目に付いた。
立ち上がって歩み寄り、覗いてみると、短い髪の毛が入っている。
鏡を覗いてみると、綺麗に髪を切り揃えられた自分の顔がそこに映し出さ
れているではないか。
元の髪型は尊重され、相変わらず切り放しの不精なものだったが、前髪
の長さも揃えられ、先程よりはうんとマシに纏まっていた。
「 ほんと、マメなんですね。」
力無く呟くと同時に、ここまでされて起きなかった自分に今更ながら呆れ
果てた。
少しの気配にも敏感に目を覚まし、獣のような眠り方だと周囲の失笑を
買った、惨めったらしくも頼もしかった自分がもう居ない。
心許無く不安な気がした。
テーブルの上に置かれた盆の布巾を取り去ってみれば、先程見たのとは
違うものが載せられていた。
焼きおにぎりにコンソメスープか ・・・ 冷めても食べられるようにという配慮
なのだろう。
何だってこんなことに ・・・。
これでは本当に感覚が麻痺してしまいそうだ。
そして気を抜いた時、全ては終わる。
誰かに足元を掬われて一貫の終わり、そうしたら捲簾にだってもう逢え
なくなるものを ・・・。
今の自分には捲簾の存在がこれまで考えられもしなかった程に大きな
意味を持ち始めているというのに。
それを他ならぬ捲簾自身が危うくしようとしてくれる。
天蓬は大きく溜息を吐いた。





結局2日後天蓬は敖潤と出掛けて行ってしまった。
切り揃えられ扱い易くなった髪を後ろに束ねて、普段より顔立ちを多く露出
している天蓬は誰の目にも現実離れして美しく見えた。
それが敖潤の用意したらしい新品のコートを引っ掛けてすっくと立って
おれば向かい合ってマトモに見てしまえば眩暈がしそうだ。
耐性の着いている筈の捲簾にもこれは少々刺激が強過ぎた位である。
他の者がどのように感じているかなど、想像するのも悍ましい程だった
が、直ぐ傍に捲簾と敖潤の険しい視線を感じてか、誰も軽口を叩いたり
は出来なかった。
まぁ、そうでなくても張本人が触れることなど許すような玉では無いのも
衆知の事実という奴で ・・・。
「 行ってきますね、捲簾。」
過ぎたことは余り蒸し返したがらない天蓬は、ことの経緯を忘れでもした
かのようにケロリと言ってのけた。
「 敖潤閣下とボクと両方居ないと分かっている間に、西方軍に大事な仕事
が入るとも思えませんが、今年は貴方が居ると知れているので、何か
あるかも知れませんね。無理はせずに大人しくしていて下さい。」
天蓬はそんなことを言った。
「 お前も無事でな。」 と普通に見送りの言葉を掛けるつもりが、敖潤の
「 天蓬に危険などある筈がなかろう。」 という言葉に邪魔された。
「 うるせぇ、こんな特注品のコート着せやがって。人間相手に天蓬を見せ
びらかしたいのか。」
「 その通りだ。」 敖潤がしゃぁしゃぁとそう言う。
「 だが、髪を揃えたのは貴様だろう。天蓬がこんなにまともで居る訳が
無い。」
周りの者が呆れる中、まだ少々の応酬を続けながら、敖潤は天蓬を連れ
てゲートに下りて行き出発してしまった。





三日が過ぎた夜、天蓬の部屋に再び明かりを認めて、捲簾はそっと部屋
に近付き中の気配を窺ってみた。
僅かではあるが声が聞こえる。
「 閣下、ありがとう御座いました。」
天蓬が礼を言った。
「 楽しめたか?」
敖潤が声を掛けてやっている。
何を楽しんだんだ、あの野郎めは?
「 はい。」
邪気の無い澄んだ声で返事をする天蓬に一応安心はした。
しかし、次に聞こえてきた声は、
「 良く似合っている。それはずっと着けておけ。」 であった。
何 ・・・ ?
「 でも ・・・。」
天蓬の困ったような声。
「 お前は誰の所有物でも無い。私のものでもない。ましてやあんな下衆
に遠慮などしなくて良い。綺麗じゃないか。それに、今取ってしまうと穴が
塞がって、今度また痛い思いをするぞ。」
「 それはそうですが ・・・。」
「 それに、それは、まじないだから。」
敖潤は言った。
「 まじない?」
「 嫌なことがあったら、何時でも私のところに戻って来い。どんな状態に
なっていても必ず受け容れてやるから。」
「 閣下 ・・・。」
「 天蓬・・・。」
敖潤が改まった硬い調子で呼び掛けるのを聞いて、捲簾は思わず身を
乗り出した。
硬いというよりいっそ重いと言った方が良いほどで何時もの敖潤の声では
無かった。
思わず、何かしようとしているのか?と疑い飛び出して行き掛けたが、それ
とも違う深刻さも感じられ、取敢えず様子を窺い続けることにした。
「 過去の事件だが ・・・ お前は余程あの時に全てを粉々に打ち砕いて
しまったのだろうな。今もお前はその時のままでいる。覚えたのは周囲
への気遣いだけだ。何百年も掛かってお前は周囲に取り繕い、押隠す
ことを覚えたが、相変わらず自分を大事にすることが出来ん。
私はそれでも、全てを受け容れてお前を待った。今回の捲簾のことに
しても、お前があのふざけた男を見ておれば気が晴れるのかと思って
それも善しとしたが、根本的な所が少しも変わらんな、お前は。」
「 申し訳ありません。自分は ・・・。」
本当に申し訳無さそうな天蓬の声。
「 治らぬのかも知れんな。お前が本当に命を失うまで。
命は歪んで虚無を知るのではなく、本来が虚無で知らぬうちだけが仕合
わせに生きられる期間なのかも知れん。だからお前を元に戻そうと考える
ことに、そもそもの誤りがあるのかとも思えるようになった。
それなのに、何故かお前が愛しい。手放せない。だから ・・・。
何処で何をしてどうなってしまっても良い。必ず私の所に戻って来い。」
「 ・・・。」 次の言葉は無かった。
暫くの間の沈黙。
初めて窺い知れる天蓬の抱え込んでいるものの予想以上の大きさに
捲簾は暗澹たる気持ちになった。
何百年掛かって解きほぐせなかった虚無を抱えている ・・・ だと?
時間の経過が異様に長かったために、周囲が事情を忘れかかっている
だけということなのか?
考え込んでいると、中の二人の会話が部屋を出る際の挨拶に変わりつつ
あることを知って、捲簾は慌てた。
「 今日はもう眠った方が良い。あの馬鹿が押しかけてきても絶対触らせ
るなよ。いいな?」
「 ・・・ はぁ ・・・。」
「 じゃぁ、おやすみ。」
「 お休みなさいませ、閣下。」
捲簾は素早くドアの傍を離れて、逃げ出した。





翌日、夜になるのを待って、天蓬の方から捲簾の部屋に出向いて来た。
「 お土産です。反物ですが。」 と捲簾の脇に立った天蓬が包みを差し出
した。
「 お供物という人間の習慣らしいです。ボクにと言って用意されていた物
なので、貴方にはちょっと大人し過ぎるかも知れませんね。」
思わず見上げた視線がどうしても天蓬の耳を探る。
エメラルドだな、と捲簾は思った。
厚みはあるが直径の小さなエメラルドの輪が天蓬の左の耳に嵌っていた。
「 耳、穴を開けたのか。」
「 ええ ・・・ ああ。」 と天蓬が耳に手を遣った。
「 気に入りませんか?」
「 痛かったろうに ・・・。可哀想に、こんなこと。」
「 気に入らなければ取りますが ・・・。」
天蓬が訊いた。
「 嵌めてろ。また敖潤と同行する度に開けるのじゃ大変だ。」
何か感じるものがあったのだろう。天蓬は耳に遣った手を捻ってイヤリング
を外そうとした。
「 嵌めてろ、天邪鬼。」
その手を掴んで捲簾が怒鳴り付ける。
「 だって ・・・。」
「 お前の逃げ場所が増えるのは俺にとっても都合が良いんだ!」
天蓬が片方の眉だけを上げた。
「 盗み聞きですか。」
「 お帰りと言ってやりたくて部屋に行ってみたら、そういう会話になって
いて入れなかっただけだ。いちいち悪く取るな。」
「 だからって ・・・。」
「 似合ってる。」
「 え?」
「 良く似合っている。だから着けておけ。」
「 捲簾 ・・・。」 天蓬はひとつ呼吸をしてから、ゆっくりと問い掛けた。
「 当然に前後も聞いたということなのでしょうね?」
「 ああ。」
捲簾は頷いた。
「 呆れましたか ・・・ ?」
「 西方軍の古参も知らない過去の経緯という奴が有りそうだってことか?
どうやら、敖潤だけが知っているお前というものが居て、それは俺が想像
していたちょっとした過去の傷を背負っているどころではないらしいな。」
天蓬は何も言わず目を伏せた。
捲簾は立ち上がって天蓬の顎に手を掛け、その顔を上げさせた。
驚いたように見上げる天蓬に口付けし長くその息を塞いでいたが、天蓬は
逆らおうとしなかった。
漸く唇を離すと、ほっとしたように深い呼吸をしたが、非難は無い。
ただ、口付けていた間と同じくしっかりと目を開けて捲簾を見据えている。
その視線を外さず正面から捉えたまま、捲簾が訊いた。
「 確認されたくなかったんだろう、お前?」
僅かに頷くのを確かめて、更に、
「 結果を求められるのも嫌いだ。そうだな?」
やはり、小さな同意。
「 常にその場限りってことか?」
「 そうです。」 と今度は声に出した。
「 それで構わなければお前と付き合える。そういうことか?」
「 ええ ・・・。」
「 ではそうする。」
捲簾は言った。
「 本当に ・・・ ?」
「 ああ。」
「 嬉しいですね。」 多少侮蔑の混ざった声で天蓬が答える。
「 そして、重苦しさに耐え切れなくなってやがて飽きる ・・・。」
「 やってみろよ。飽きさせられるかどうか。お前の遣り方で良いぞ。何にも
合わせてくれなくて良いから、思う存分お前一流の厭世観に浸って、虚無
を感じ、浮世の煩雑さを軽蔑し続けるがいいさ。」
「 はぁ ・・・ ?」
「 俺は俺の遣り方でお前を見続ける。お前が煩さがっても食事と睡眠の
世話を焼き、そうそう、風呂にも時々ぶち込んで ・・・。お前が嫌ってもお前
にとってどうでも良いような日々の細かい成果に一喜一憂し、お前が蔑もう
とお前がちょっとでも笑い声を立てるのを眺めていたい。」
天蓬の驚いたような顔が、長い台詞の途中から呆れ顔に変わり始めて
いた。
「 お前の根本がそれでも変わらず、結局独りぼっちで死んで行くのだと
しても俺はそれで良い。そうならそれで俺はそんな奴で在り続けたお前を
見送ってやる。」
重過ぎる言葉を口にした後、少し照れたものか、捲簾はそこで表情を崩し
「 そんな付合いってどうよ?」 と、最後にそう付け加えた。
天蓬が両手を伸ばして捲簾の首に手を回し、顔を引き寄せる。
ぐっと近付いたその顔にゆっくりと、「 本当に貴方という人は ・・・。」
そう言いながら、今度は自分から唇を重ねてきた。
「 本当に貴方という人は煩くて、面倒臭い。」




















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   ―― 愁 嘆 ――

   2007/09/25
   2007/10/04 書き換え
   天蓬心理分析 ( 独自解釈 ) 実験中
   written by Nachan

   無断転載・引用は固くお断りします。

   ブログへのリンク
   http://akira1.blog.shinobi.jp/

   素材提供:Heaven's Garden
   http://heaven.vis.ne.jp/










NOTE :

「 菊花 」 の続編のようなお話。 「 迷路 」 もちょこっと踏襲か?
いや、元々そんなに整合性を持たせている訳ではありませんので
その場その場で適当に読んで下さい。 ( ← 好い加減!)

時々、通常では異様過ぎて愚痴ることも出来ないような愚痴を
天蓬に託 (かこつ) けて言わせています。菊花など特にね。
まぁ、この人も結構異常ですモンね。 (*'-^)-☆パチン