―― 迷 路 ――












真夜中。
寝そびれて、時間の経過と共に益々目が冴えてゆく感覚に耐え切れなく
なった敖潤は、とうとうベットに見切りを着けると立ち上がって着替えをし、
自室を出た。

一日中閉められることのない兵営内の食堂で飲み物でも飲もうかと暫く
廊下を歩いてゆくと、途中、中庭に面しており、支柱だけで壁の無い一角
に差し掛かる。
肌に外気を感じて、何気なく外を見遣ると、廊下からは少々離れた位置に
花壇を背にして設えられたベンチに、人の姿があるのに気が付いた。
月齢は浅かったが星が明るく、ある程度、人や物の様子が見分けられた。
特に夜目にも際立つ、その細っそりとした人影は、傲潤の背筋に痺れにも
似た感覚を呼び起こすものがあった。
― 天蓬 ・・・? ―
こんな時間に何をしているのかと目を凝らせば、肩と胸の辺りに血液らしい
染みが飛び散っている。
何事だろうと音を立てずに眺めていると、余程弱っているのか自分の気配
も察せぬまま、俯いて唇を噛み締めていた天蓬が、手の平を上に向けて
両手を持ち上げ、俯いた姿勢のままでそれを眺め始めた。
細い指を少し曲げ、天蓬はそこに何かを見出そうとするかのように、暫く
じっと両手を見詰めていたが、やがて更に手を持ち上げ、顔に押し当てる
と、己が顔を覆ってしまった。
華奢な肩が震えて上下しているのが見て取れる。
声こそ上げてはいないが、どうやら泣いているようだった。
我慢出来なくなった敖潤は大股につかつかと中庭に出てゆくと、その傍に
立ち、躊躇いもせずに正面から声を掛けた。
「 怪我をしているのか。」
いきなり上官の声を聞いて、はっとして手を下ろし、自分を見上げた天蓬
の様子に、敖潤は更に驚いた。
眼鏡を掛けておらず、顔の右半分を腫らし、目の下が切れ、そこから血が
流れている。
思わず顎に手を伸ばし、顔を上向けさせると口の端も切れていてそこから
も出血しているのが分かった。
「 申し訳ありません、閣下 ・・・。」
天蓬が立ち上がろうとするのを、両肩を押さえて止めた。
「 そのままでいい。何故謝る。」
「 見苦しいところを御覧に入れてしまいました ・・・。」
消え入りそうに恐縮しながら答える。
「 構わん。しかし、その怪我は?」
「 寝惚けて階段から落ちました。」
その返事に敖潤は苦い表情をした。
余りにも嘘丸出しで、その場を逃れたいだけのお座なりな返答 ・・・。
「 ほう・・・?」
敖潤は口元を引き攣らせて、肩から手を放し、踵 (きびす) を返してその
場を離れようとする。
「 閣下、どちらへ ・・・。」
天蓬が不安げに問い掛けた。
「 階段を叩き斬って来る。」
「 ・・・ !!」
その言葉に天蓬は弾かれたように立ち上がり、最初、敖潤を止めようと
手を伸ばし掛けたが、相手が上司であることを思い出して、直ぐに諦めて
その手を引いた。
代わりに先回りして敖潤の前に出て向かい合うと、地面に膝と手を着いて
頭を下げた。
「 怪我人が何をしている。」
呆れてそう声を掛けると、相手は地面に着けた腕を曲げて、更にその位置
からぐっと頭を押し下げ、搾り出すような声で懇願する。
「 お許しを ・・・。」
怪我をしているはずの顔が地面に着きかけており、声も震えていた。
「 何故だ?」 と敖潤。
「 お前に怪我を負わせられそうな奴は一人しか思い浮かばん。
私以外にお前が黙って殴らせる奴がいるとしたら、捲簾だろう。
何故好きにさせた。」
「 怒らせたのが自分だからです。」
「 怒らせようが何をしようがお前が上官だろうに。あ奴、これで2度目だぞ。
もう許さん。私が叩き斬る。」
「 お許しを ・・・ どうか ・・・。」
重ねて許しを請い、天蓬はその姿勢のまま、顔だけを上向けて敖潤を見上
げた。
思い詰めた表情をし、傷を付けられ腫らした顔で、必死にこちらを見ている。
先程まで泣いていたらしい両の目は潤んだままで、普段の凹レンズ越し
に見ているそれより一回り大きく見えた。
周囲で噂になっていた翡翠色の目の正体を今更に思い知った気がする。
そのまま引き込まれそうな深い碧の目を懸命にこちらに向けて哀願する
天蓬の姿に、敖潤も流石に捲簾を斬るのは無理だと感じ、不承不承に
頷いた。
「 立てるか。」 と尋ねると、天蓬はこの機を逃すまいとばかりに 「 はい。」
と返事をして、敖潤への服従を見せようとした。
しかし、立とうとする身体には力が入りきらず、視力も覚束かない。
「 眼鏡はどうした。」
「 壊しました。」
敖潤は溜息を吐きながら、部下の腕を掴んで立たせた。
「 私が手を貸す。大人しく医療館にゆくというなら捲簾は見逃してもいい。」
「 有難いのですが、本当に今度のことでは、全面的に自分に非があるの
です。周囲に知られてしまったら、自分はもうここには居れません。」
やれやれ、と敖潤は頭を振った。
「 では、お前の部屋に行こう。薬はあるか?」
「 いえ ・・・。」
「 仕方の無い奴だ。私の部屋にしよう。」
敖潤は天蓬の手を掴んで自分の肩に回させた。
「 それとも、担ぎ上げて欲しいか?」
捲簾さえ見逃されれば自分の怪我はどうでも良いと言わんばかりで、
気乗りしてはいない様子の天蓬を睨み付けると、やっと
「 歩けます。」 と答え、天蓬が歩き始めた。





翌朝、珍しく営庭に集められた部下達の前に姿を現した敖潤は、向こう
一ヶ月間の天蓬の不在とその間の指揮は直接自分が取る、という内容を
告げた。
「 他には特に無い。解散!各自任務に戻れ。」
号令を掛けると、そのまま歩き出した敖潤を捲簾が追い掛けて来た。
「 貴様か。」 敖潤はそれを睨み付け、吐き捨てるように言った。
「 貴様は首だ、捲簾大将。」
捲簾が言い返せずにいると、「 流石のはみ出し者でも、言い返せんのか。」
と口元を歪める。
「 忌々しいが、実際のところ貴様の追放は叶わなかった。貴様について
は一切不問。それが天蓬に療養期間を承諾させる条件だったからな。」
「 取引をしたんですか?」
「 取引というか、天蓬が地面に平伏して懇願したからだ。」
「 あいつが ・・・?」
捲簾がそう言った途端に敖潤の手が伸びて、捲簾の胸倉を掴み、その
竜神族の上司の異様に強い力に捲簾は殆ど持ち上げられそうになって
息を詰まらせた。
「 あいつではなかろう?貴様の上官だっ!」
「 て ・・・ 天蓬元帥 ・・・ は、どちらに ・・・ いらっしゃる ・・・ のでしょう?」
呼吸に苦しみながらやっとのことでそう問い直す。
「 私は天蓬に貴様を解任しないことと、叩き斬るのを思い止まる事を約束
して、療養を承諾させたが、貴様に傷も付けんとまでは請け負わなかった。
第一、今ここに天蓬は居らんしな!」
そう怒鳴り付けると、敖潤はもう片方の手も捲簾の胸にかけ、身体を捻って
腰を落とし、捲簾を投げ飛ばして地面に叩き付けた。
身体の内部にボキリという鈍い音を聞いたのを最後に、全てが闇に消えて
ゆく ・・・。捲簾は気を失っていた。





薄手の白いコートを着せられ、これまで片時も外したことの無い眼鏡も
掛けず中庭に立つ天蓬の姿に、見送りに間に合ってそれを見られた者は、
皆自分が幸せ者だと感じた。
純白のコートは細身の身体に良く似合っており、緑の黒髪が対照的に
くっきり浮かび上がって鮮やかな輪郭を形作っていた。
しかし、肝心の天蓬の顔色は相変わらず良くなく、昨夜腫らせていた顔は
今は大分引いてはいるものの、紫色の痣となっている。
それでも、殆ど初めて、眼鏡無しに曝け出された顔は、それまで誰が想像
していたよりも美しかったようで、その場にいた誰もが一様に息を呑んだ。
ただ、本人だけはひどく沈んだ様子で、終始俯き加減。
何かに怯えてでもいるように身を竦ませていた。
行きたくないのだろうな、と永繕は思った。
非常に間の悪いところを敖潤に見付かって、ちゃんとした療養をとるか、
然らずんば、捲簾を追放する、とか何とか脅されているのだろう。
口も利けない様子で、しょげ返って敖潤の後をついて歩くその様子は、
まるで引き立てられてゆく罪人のようだ。
可哀想になった永繕は前に出ると、天蓬の手を取って、
「 何かございましたら・・・。」 と声を掛けてやった。
声だけで永繕だと気付くと、天蓬は縋り付くように手を握り返して寄越し、
永繕を少し引き寄せ、顔を近付けて大急ぎで言った。
「 捲簾に、『 全ては自分の心得違いだった。許して欲しい。』 と ・・・。」
そこまで言ったとき、敖潤が不機嫌そうに天蓬の肩に手を掛け引き戻した。
「 好い加減にしろ。もう行くぞ。」
中庭のほぼ中央まで出た敖潤が片手を上げ、上を指すと頭上の一角に
白く分厚い雲が現れ渦を巻き始めた。
その渦が大きくなったところで、敖潤は天蓬の身体に手を回し抱きしめる
と、そのまま白い竜に変身して立ち上る煙のように天空の渦に向かって
消えていく。
竜に抱きしめられ消える直前、網膜に残った天蓬の最後の姿に、永繕は
我と我が目を疑った。
あれは ・・・。あれは、確かに涙を流しておられた ・・・。





「 お言葉ですが、御命令には従えません。」
永繕がきっぱりと言ってのけた。
「 お前なぁ ・・・。」
寝かされているベットで頑固者の部下を見上げ、捲簾は溜息を吐いた。
気付いた時には、医療館に運び込まれていた捲簾であったが、何時もと
違って心配して見に来る部下たちの姿も無く、周りのベットがガラガラに
空いているのも妙な話で、つまりは皆に嫌われて避けられているという
ことらしい。
それでも、混乱した頭を整理しようと、暫くそのまま寝ていると、永繕が
やって来たが、それも立場上具合だけは確認しておきたい、といった態度
であった。
捲簾は当然に天蓬がどうなったのかを知りたがったが、永繕は知ってい
ながら、教えようとはしなかった。
「 命令だ、教えろ。」 と強く迫ってみた結果が斯くの如しである。
「 分かっておいでですか?貴方は先程大勢を前にして、敖潤閣下との
会話で、元帥を負傷させたと告白したようなものだったのですよ?」
大声を出したり言葉を荒げたりせぬまま、自身が激怒していることを相手
に確実に伝えている点が流石に天蓬の子飼いだ、と捲簾は妙な感心の
仕方をした。
「 しかも、天蓬元帥は未だに貴方を庇っていらっしゃる御様子ですし。
土下座までして貴方を助け、先程も敖潤閣下に引き立てられるようにして
療養先にお出掛けになられました。あれは、一つでも逆らえば貴方を解任
するとでも脅されていらしたのでしょう。」
捲簾の顔が苦痛に歪んだが、それはあながち骨折の所為ばかりでは
なかったろう。
「 そんな連れ出され方をして、それで天蓬は無事でいられるのか?」
つい気になって、そこのところを尋ねてみた。
「 今、何と仰いました?」 永繕は不機嫌を隠しもせずに答える。
「 敖潤閣下が何かなさるとでも ・・・?」
「 絶対しないとでも言うつもりか?一つも逆らえない立場なんだろう?」
「 絶対に有り得ません。敖潤閣下は観世音菩薩が御懇意の竜王様に
依頼して、御子息を西方軍の責任者の任にと遣わせて頂いた方なの
ですから。」
「 親父の言い付けでここに来た奴だったのか?」
永繕がきっと睨み付ける。
捲簾は起き上がろうとベットの外に足を下ろした。
「 何をなさるおつもりです。」
「 永繕 ・・・。」 捲簾は立ち上がりながら呼び掛けた。
「 俺は天蓬に怪我をさせたが、あいつをどうこうしたかった訳じゃない。
傷付ける気も毛頭無かった。だから ・・・。」
横に吊るされていた洋服を引っ掛ける。
「 どうしても、あいつに会って、そう言ってやらねえと。」
永繕が捲簾の顔を覗き込んで考え込んでいる様子だったが、捲簾は
構わず靴を履きに掛かった。
片手が固定されたままなので酷く遣り難い。
無理な動きに固定されている肩にも激痛が走る。
「 まぁ、今の私には貴方に言えと命じられて喋りたいと思う気持ちはあり
ませんが、出発前に天蓬元帥に 『 伝えて欲しい 』 と依頼されているのも
確かです。」
「 やっぱり伝言があったのか。」
「 気は進みませんがね。お言葉は、『 全ては自分の心得違いだった。
許して欲しい。』 だそうです。」
またズキリと走り抜けた強い痛みに身体を引き攣らせた捲簾は思わず
ベットに腰を下ろしてしまったが、激痛の波が退いて息が出来るように
なった後もそのまま暫く腰が上がらなかった。
俯いたまま目を伏せ、唇を震わせている。
「 あいつ ・・・。謝る必要なんか無いのに ・・・。
あの誇りの高い奴がそんなことを ・・・。」
「 申し上げておきますが、伝言するところは敖潤閣下にも聞かれています。
他に伝言の機会が無かったものですから。」
「 それは、今や敖潤が本気で俺を殺したがっているという意味なんだろう
なぁ ・・・。」
捲簾は無理矢理立ち上がると、靴を履いてしまい、部屋を出ようとしたが、
ドアの前まで来ると思い出したように永繕を振り返った。
「 あのな、伝言にあった内容だが、天蓬は間違ったことなど何もしては
いない。あいつはお前達の知っている通りの天蓬だから。」
「 当然です。誰もあの方が心得違いをしたなどとは思っておりません。」
「 そうか。」 と捲簾は心から安心したように言った。
「 それなら良かった。」
改めて出て行こうとすると、今度は永繕が呼び止める。
「 お待ち下さい。」
「 うん?」
「 分かりました。降参です。貴方もあの方に何も悪さはしておられない。
そういうことのようですね。」
「 いや、殴ったのは本当だ。それに、あいつを傷付けたのは殴ったなんて
どうでも良い事なんかじゃなかったしな。」
意味は分からないが、結果は同じなのでまぁよいだろうとでもいう顔で、
永繕は目を伏せ、ぼそりと付け加えた。
「 天蓬元帥は、敖潤閣下の別荘に出掛けられました。そこもまた、竜神族
でなければゆけない異界です。」





「 最初から痛みで泣いていた訳ではなかったんだなぁ ・・・。」
眠っている天蓬の顔を眺めながら敖潤は呟いた。
「 数え切れぬ程の戦闘を経験し、何度も負傷しているお前が、痛みや
殴られた悔しさに涙を流すなど有り得なかったのに ・・・。」
当初、あの不良分子を庇って自分に非があると主張しているのかと思っ
たが、永繕への伝言といい、ここに来る途中のしょげ返った様子といい、
どうやら本気で自分が何かを仕出かしてしまったと思い詰めている様子
であった。
その所為か、天蓬は極上の環境に移し、異界の珍しい景色を見せても、
少しも楽しまなかった。
ここに着いて宮殿を案内してやっても、自慢の東屋を見せても心ここに
在らずといった様子であり、心配して覗き込むと、恥じ入るように、昨夜
見せたのと同じ動作で、細い指を10本とも顔に押し当てて俯いてしまう。
自分自身の行動に恥じ入って苦しんでいるらしい天蓬の様子を見兼ねた
敖潤は、仕方なく、飲み物に一服盛るという手荒い手段を使った。
竜神秘伝の一服を口にした天蓬はその場で完全に気絶してしまい、その
まま衣服を剥ぎ取られても、敖潤の呼び付けた医師からかなりとんでも
ない診察を受けている間も、目を覚まさなかった。
「 何処も何ともありません。乱暴もされていないようですし、これまでに
そうされてきた形跡も見当たりません。お顔に見える怪我が全てです。」
そんな風に医師は報告した。
「 ただ ・・・。」 と、医師は深刻そうに付け加えた。
「 薬の量が多過ぎます。竜神以外に薬を盛る時には加減なさらないと 」
案の定、医師が帰って行った後も天蓬は昏々と眠り続けていた。

客間に宛がった豪奢な部屋に置かれた、天蓋の付いた広過ぎる寝台に
横たえられた天蓬は、軍で取り沙汰されている以上に白く肌理細やかな
身体を無防備に晒して、只管眠っている。
衣服を身に着けている時に想像させる痩せ過ぎた部分は、実際にこうして
みると何処にも見当たらず、ただ全体の骨組みが繊細に細く、全ての部品
が異様に整っているといった趣きである。
そんな身体を従えているのが、あの絶妙な美術品のような顔なのだ。
創造主の悪い冗談でも眺めているような気分だった。
「 堪らないな。」
敖潤は溜息を吐く。
何の形跡も見当たらないという医師の言葉を思い出すと、思わず、では
今の内に自分が手に入れてしまおうか、と思わなくもなかったが、それを
嫌った観音が父王にわざわざ、そうでない者をと要請した結果、選ばれた
のが自分とあってはそうも出来ない。
手を出した瞬間に自分の存在意義も無くなってしまう、という矛盾した関係
である。
室温は快適で、特にその必要も無かったが、気が付いた時天蓬が嫌がる
のではないかと、寝台の端に用意してあった薄い布を丁寧に足先から
首のところまで掛けてやった。
その時、天蓬が呻いて、微かに目を開いた。
何か言おうとするが、まだ口は利けないらしく、声にならない言葉に唇が
少し動いた。
「 何も心配は要らん。手当ても済んでいる。ほら ・・・。」
敖潤が天蓬の右手を持ち上げて顔に貼られたガーゼに指を着けさせて
やると、感触が伝わったのか、天蓬は僅かに頷いて了解を示した。
そこで力尽きて、再び目を閉じてしまったが、閉じた双の目から涙が溢れ、
ぽと、ぽと、と音をたてて枕に落ちてゆく。
白過ぎる顔を伝わり、玉となって次々に滴り落ちる大粒の涙 ・・・。
余りにも儚く美しい光景に、敖潤は歯噛みした。
天蓬が一体何をしたのかは知らないが、ここまでボロボロになるほどに
傷付ける必要が何処にあるのかと、無性に腹が立った。

敖潤は後のことを使用人に念入りに頼んで、元の天界に戻って行った。





「 それとおんなじ奴を大至急で頼む。」
捲簾がひん曲がり、レンズにヒビの入った眼鏡を渡すと、主計課の若者は
嫌そうな顔をして見せた。
「 貴方がこれをこんなになさったのでしょう?」
「 そうだが、あいつにはそれが要るんだ。」
まだブツブツ言っている若者はそれでも、眼鏡を受け取り、伝票を切った。
「 恨まれていますよ、捲簾大将。」
「 らしいな。結構じゃないか。」 と捲簾。
「 ここでは、あいつへの信頼は絶大だ。やはり、あいつはここに置いといて
やんねえとな。」
「 はぁ・・・?」
伝票を渡しながら若者が捲簾に不審そうに訊いた。
「 敖潤のような堅物のぼんぼんに何が分かるってんだ!」
捲簾は相手を無視して自分の言いたい事だけを言うと、主計課を出た。
どうしても、敖潤から天蓬を取り戻して、天蓬に伝えてやりたいことがある。
そのままの勢いで、捲簾は敖潤の部屋へ乗り込んでいった。

入ると同時に 「 貴様っ!」 と割れるような声で一喝され、捲簾を認めて
直ぐに立ち上がった敖潤が、信じられない素早さで捲簾に近付き、目の
前に仁王立ちになった。
捲簾は構わず膝を折って、床に手を着き、あの夜天蓬がしたと聞かされて
いた土下座をした。
「 閣下、後生ですから天蓬に会わせて下さい!」
「 貴様がそんなことをしても、美しくも可哀想でも無いっ!」
敖潤が興奮の余り、戴けない本音を叫び、ついでに這い蹲っている捲簾の
胸を狙って、足ですくい上げる様に蹴りを入れてくる。
突き上げられて、捲簾は後ろの壁まで消し飛んだ。
しかし、諦めない。
もう一度、その壁の前で土下座して、同じことを頼む。
「 天蓬に会わせて下さい。敖潤閣下、天蓬に ・・・!」
天蓬に ・・・ と聞かされて、思わず泣きながら眠り続ける天蓬の姿が思い
浮かんだ敖潤は、更に憎しみを込めて捲簾を蹴り飛ばした。
「 貴様の所為で、天蓬はずっと泣き続けておるっ!貴様一体、天蓬に
何をしたっ!」
言いながら、背中を軍靴で踏みつけたが、それでも捲簾は、一切逆らおう
とはしなかった。
「 閣下、お願いします ・・・。」
言い終わらぬうちに、次には折られていた肩に蹴りが入って、今度こそ
捲簾は気を失ってその場に倒れてしまった。





程良い濃さの香の匂いが混ざる心地良い空気の中で、宛も空気に抱かれ
浮かんででもいるような錯覚があった。
夢とも現ともつかぬ半覚醒の状態で、天蓬は長い時間を過ごしていた。
目を覚ましても見えるのは寝台の天蓋だけでしかなかったが、首を動か
せず、視線をずらすだけでは、ある筈の支柱が目に入らぬところをみると、
異様に広い寝台に寝かされていると知れた。
余程の上物なのだろう、長く寝かされているのが分かっているのに、背中
が少しも痛まない。
身体は何も着せられていないようだったが、軽い布が胸まで掛けられて
いて、羞恥の念に悩む必要は無さそうだ。
自分で動いてそれ以上のことを確認することは全く叶わず、それどころか、
何か一つのことを考えるのが精々で、それすら途中で襲ってくる眠気に
邪魔されてしまう。
時折、自分のものよりももっと細い手が伸びて、顔に当てられたガーゼを
貼ったり剥がしたりし、やがてガーゼが取り払われると、代わりに時々、
畳まれた冷たい布が目の上に置かれるようになった。
また、悪い夢を見て魘されると、その度、身体に掛けられた薄い布が
取り払われて、蒸しタオルのようなもので汗ばんだ身体を拭かれ、終わる
と元通りに身体全体に布を掛けられた。
心地良く手厚い看護に、身体はみるみる回復し、傷は消えていったが、
そのことで却って情けなさが募った。
己が捲簾にしたことを思い出すと、いっそ、このまま消えてしまいたいと
思うのに、順調に回復してゆく身体が恨めしかった。
そこに考えが及ぶと、また涙が溢れ出してくる ・・・。
何度目かに泣いたとき、女官のそれとは違う太く大きな手が顔に伸びて、
顎を支え、次の瞬間、男の顔が被さって唇を塞いだ。
― 捲簾・・・? ―
しかし、考えは長くは続かず、また意識が遠退いてゆく。
「 捲簾 ・・・ 許して下さい ・・・ ボクは ・・・ 酷い ・・・ 心得違いを ・・・。」
譫言を言いながら、天蓬ははらはらと涙を流し、再び夢の中に戻って
いった。





湿気た黴臭い臭いが充満しており、何処かで漏れているらしい水の染み
出す音が時折、ぴちゃ、ぴちゃ、と不愉快に耳朶を打つ。
捲簾が目を覚ますと、そこは医療館ではなく、懲罰房の中で、両手が鎖で
壁に吊り下げられていた。
「 自業自得だな ・・・。」
自身の置かれている状況が認識できると、捲簾は呟いた。
「 天蓬にあんなことをするなんて、な ・・・。俺は ・・・。」
言葉の最後は込み上げてくる悔しさに途切れて消える。
捲簾は、3日前の夜のことを思い出し始めた ・・・。

何時も通り捲簾は天蓬の部屋に立ち寄って、他愛ない話をしながら煙草
を吹かしていた。
近頃、何もない夜に、二人で煙草を吸いながら雑談して過ごすことが日課
のようになっていた。
ちょっと言葉が途切れた時に捲簾は、新しいジョークを披露するような軽い
調子で天蓬に言った。
「 お前とやりてえな!」
「 いいですよ。」
天蓬が答えた。
「 え ・・・?」
捲簾はきょとんとした。
よく、冗談でそういうことを言いはしていたが、まさか ・・・。
これまでだって、天蓬はその度、軽く捲簾を往なしてきたのに、何故今日
に限ってそんな答えを ・・・?
「 ボクもそうしてあげたいなぁ、と思っていたところです。」
「 本当に?」
「 ええ ・・・。」
頷きながら、天蓬は着ていたものを脱ぎ始め、裸になって捲簾の前に
立った。
「 あのさ ・・・ 意味分かってる?」 と捲簾は念を押した。
「 それで自分がどうされるのか、分かって言っているのか?」
「 大丈夫です。経験ありますから。」
天蓬はあっさりとそう答えた。
「 あ、そ ・・・ う?」
まぁ、確かに経験の一つや二つはあるだろう。
軍隊でここまで上り詰めた男なんだし、その割には周囲に女の影も無い。
過去に男性と付き合っていて、何かの事情で別れてしまい、そのままに
なっているに違いないとは、前々から思っていた。
全てを脱ぎ捨てて、美しい身体を惜しげもなく晒し、自分の前に立った天蓬
を改めて感動しながら引き寄せ、唇を重ねる。
しかし、天蓬の反応は何だかぎこちなく、口付けもひどく味気無かった。
「 お前本当に経験あるのか?」
思わず唇を離して、尋ねてみた。
「 ええ ・・・。口付けはあまり好きではありませんが。」
という答えだった。そして、
「 そんなことより、早く ・・・。」
と、捲簾を促す。
何を焦っているのだろうと思いながらも、捲簾は自分の前に膝を着いた
天蓬の眼鏡を外して頭を抱き、前を開いてやった。
それからの天蓬は見事だった。
捲簾のモノにそっと口付けし、口付けた唇をつつっと滑らせるような優しげ
な仕草で括れまでを呑み込む。
顔を見ると、目を開けたままで相変わらずの整った顔に、穏やかな表情
を浮かべており、その表情に似合わぬ行為を一生懸命にしようとしている。
「 おまえって、本当に何をしていても綺麗なんだな ・・・。」
捲簾は感心してそう言った。
天蓬はみるみる勃ち上がり張り詰めてゆくモノを咥え、括れを引っ掛ける
ように、唇で絞る。呑み込むときは緩く、抜くときは絞って口淫を施した。
心地良さが次第に脳天にまで伝わってきて、痺れにも似た快感を覚える。
興奮し始めた捲簾は姿勢を変え、天蓬を引き寄せると、手を伸ばして、
相手のそれを触ろうとした。
その時、
「 やめて ・・・。」 と拒絶する声が掛かった。
「 止めるって、何でさ?」
言いながら構わず手を届かせて、天蓬の持ちものに触れる。
熱も持っていなければ、何の変化もみせてはいない静もったものに触れ
た時、捲簾はぞっとした。
「 お前 ・・・。あんなに気持ち良さそうに俺のを口に含んでいて、自分のは
勃ってもいないのか?」
「 そんなこと ・・・ 貴方に関係無いでしょう?」
考えられないような冷たい答えが返ってきた。
「 関係無いって ・・・ お前も感じないと、身体も開かないし、色々とその ・・・
差し支えもあるだろう?」
「 何でです?ボクが感じようと感じまいと、貴方が興奮すれば良いだけの
ことでしょう?ボクはちゃんと貴方を受け容れられます。」
「 ・・・ ?!」
捲簾は思わず、天蓬を自身から引き離して、弾き飛ばした。
「 やめよう。」
「 何故です?ボクとやりたいと言ったじゃないですか?」
捲簾は構わずにティッシュを取り、さっさと処理をして前を閉めてしまうと
天蓬にも洋服を投げてやり、着ろ、と促した。

しぶしぶ洋服を着込んで眼鏡を掛け直した天蓬は、不満そうに捲簾を
睨み付けていた。
「 お前さぁ ・・・ 経験が有るって言ってたけど、その相手って誰?」
「 何故そんなことを聞くんです?」
天蓬が噛み付くように聞き返す。
「 やっぱりな!」 と捲簾が首を振って言う。
「 答えられるような良い思い出にはなっていない ・・・ と!」
「 良い思い出って何なんです。セックスに良い思い出も悪い思いでもない
でしょう?誰かが捌け口を欲しがり、誰かが応じる。それだけの関係じゃ
ないですか?」
「 はぁ ・・・?」
幾ら何でもそこまでとは思っていなかった捲簾は、露骨な軽蔑感と失望を
隠すことも忘れて唖然とした。
「 もしかして、お前 ・・・ お前、これまでに一度も自分が良いと思ってやった
こと、なかったんじゃないのか?」
「 当たり前でしょう!あんな行為っ!」
ついに切れたらしい天蓬が大声で怒鳴り返した。
「 自分は軍人だからと、泣き言も言えずに来ましたが、酷い痛みがあるし、
気持ちは悪いし、行為があった次の日は演習も辛いし、何をどう楽しめと
言うんです!」
余りの台詞に捲簾は愕然とした。
確かに周りの雰囲気に呑まれてそういう行為をする奴もいて、大して楽しめ
ないまま引き摺られ続けるということも有り得るのかも知れなかったが、
それにしてもこれほどの嫌悪感を持つとは ・・・。
天蓬にこれほどの嫌悪感を感じさせるセックスを強い、当然にそうと分か
ったまま、その行為を継続させた誰かが過去にいたということか ・・・?
その男が憎いと捲簾は思った。
しかし ・・・。
よくよく考えてみたら、今の天蓬は自分をもそれと同じに認識しているの
ではないか?
セックスは惨いばかりのものと信じていながら、尚、捲簾にその行為を
与えようとした。
こいつには、俺も唯、自分に惨い行為を強いるだけの存在でしかないのか?
そこまで考えた時、捲簾の左手は勝手に天蓬の顔面を強かに殴りつけて
いた。
「 情けない奴だ!そんな行為だと思っていやがった癖に俺と ・・・。
俺はお前の何なんだ?
お前を傷付け、食らおうとするハイエナどもの一匹か?」
そう言うと、既に倒れている天蓬を引き摺り上げてもう一度殴った。
今度の方が拳が強く入って、眼鏡が消し飛び、顔が切れて、頬が腫れ
上がった。
天蓬は一度目に殴られた時、驚いて捲簾を見上げたが、二度目を食らう
と分かった時にも、敢えて抵抗しようとせず、ただ黙って殴らせた。
軍人である天蓬が、一度目の不意打ちなら兎も角、二度目の殴打を避け
切れない訳がないのだが、そうはせず、ただ好きに殴らせる。
その間に何かを必死で考えているようにも見えた。
表情は寧ろ、先程悪態を吐いていたときよりも優しげであった。
はっきりとは形を成さないが、自分が何かを手ひどく間違えていたことに
ようやく気付いたのであろう。
「 捲簾 ・・・?」 目を瞬かせながら、天蓬が恐る恐る声を掛けた。
「 何だかその ・・・ ボクが思い違いをしていたようです。」
「 ・・・。」
捲簾は答えなかった。
特に焦 (じ) らせてやろうとかいう悪意が有った訳ではなかった。
ただ、先程からの天蓬の余りの言い草に混乱していた捲簾は、直ぐに
立ち直って受け容れてやるということが出来なかったのである。
「 許して下さい。ボクはただ、貴方とならもう一度、痛みを受け容れても
良いと思っただけです。本当に喜ばせてあげたかっただけなんです。」
そう言うと、天蓬はドアの方に近付き、ノブを回した。
「 頭を冷やして来ます。」

しまった!行かせてはいけなかったのに! ・・・ と思った時には遅かった。
混乱が治まり、天蓬が痛みだけだと信じている筈のセックスででも自分を
喜ばせたいと、応じる気になってくれていたのだと、ようやっと納得できた
時には、相手は部屋を出て行ってしまっていた。
しかも、目の前には割れてひん曲がった眼鏡が落ちている。
「 これ無しでは歩けなかったはずじゃ ・・・?」
何もかもが遅きに失したと、捲簾はやっと気が付いて、部屋を出て真夜中
の兵営を探し回った。





それ故、最後に見た天蓬の姿は、自身の投げ与えた侮辱と暴力に傷付い
て、力無く肩を落とし、それでも文句も言わず謝罪だけをして部屋を出て
行った時のものである。
あんな状態の友人を黙って行かせるなんて、して良い事である筈が無い
と、捲簾は自分の記憶の惨さに身体を震わせた。
這い上がってくる自己嫌悪に、鎖に繋がれた腕を捩って身悶えし、
「 俺は ・・・ とんでもない大馬鹿だ ・・・。」 と声に出して呻いた。
それに応えるように、「 今頃気付いたか。」 という罵声が返ってきた。
敖潤であった。
いつの間にかやって来て、房の外側に立ち、自分を見下ろしている。
「 私を恨んでいるか?」
「 いや ・・・ 感謝してるくらいだ。あの時、あんたが居なかったらあいつ ・・・
元帥は何をしでかしていたか、分かりやしなかったからな。
止めてくれて有り難たかったさ。」
捲簾は珍しく本音を言った。
「 まぁ貴様に感謝などされても、嬉しくも可笑しくもないがな。」
敖潤が房を開けて中に入り、煙草を取り出して捲簾に咥えさせた。
火を点けてやると、捲簾は美味そうにそれを吸った。
「 天蓬のことだがな ・・・。」
「 ああ ・・・?」
「 貴様が振ったので、私が頂いたぞ。」
捲簾は煙草を唇で止めながら手を使わずに器用に煙を吐き出した。
「 そうか。 ・・・ 優しくしてやったか?」
「 うん ・・・?」
「 今度こそ、優しくしてやってくれたかと聞いている。」
「 ああ ・・・。」
「 あいつ、満足していたか?」
「 ああ ・・・。」
「 そうか。それなら良かった。」
捲簾は本当にそれで良いと感じている様子である。
そうか、敖潤がものにしたのか ・・・ と捲簾は思った。
それならそうでも良いかも知れない。
敖潤なら育ちの良いぼんぼんだし、悪い扱いなどしたくとも思い付きもし
ないだろう。
出来れば自分がそうなりたかったが、そうか、全てをふいにしてしまったか。
諦めるしかないだろうし、相手が敖潤なら諦めも着けやすかった。
決して自分が好きになりそうな相手ではなかったが、家柄も良く品がある。
「 あいつには、その方が仕合わせなのかも知れん ・・・。」
短くなった煙草をぷっと吹き飛ばす。
「 で、俺は何時までここで過ごすんだ?」
「 出来れば一生こうしておきたかったがな。」
敖潤は、鍵を取り出して、捲簾を鎖から放した。
そしてゆっくりと言った。
「 貴様の勝ちだ。捲簾。」
「 はぁ・・・?何の勝ち負けだ?」
意味が分からず、捲簾はぽかんとして尋ねた。
「 貴様から引き離した後、天蓬はずっと眠らせていた。辛がっていたから
可哀想でな。だのに ・・・ 眠っていても忘れられなかったようで、苦しんで
いた。その姿が愛しくてな。奪ってやろうかと何度も思った。
だが、一度だけ、貴様にチャンスをやろうと決めた。」
「 チャンスって ・・・?今の ・・・?」
敖潤は頷いた。
「 貴様が怒り狂って天蓬に復讐でも誓ってくれたら、心置きなく天蓬を
奪えたものを ・・・。貴様は何処までもいけ好かない奴だ。」
「 じゃぁ ・・・ 今のは?」
「 嘘に決まっているだろう。鈍いな貴様は。」
「 そう ・・・ なのか?」
捲簾はへなへなと腰が抜けて、その場にへたり込んでしまった。
「 なんだ ・・・ そうだったのか。」
くっくっくと声に出して捲簾は笑った。
呆れたようにそれを横目に睨み付けながら敖潤が続ける。
「 言っておくが、天蓬には何も言ってはいないし、この先も取り成してやる
気は無い。つまり、あの時貴様が殴りつけたままの天蓬で居るという事だ。
だから自分で何とかしろ。それと、さっき言ったことが全部嘘という訳では
ない。天蓬が欲しいのは本当だからな。貴様、嫌になったら何時でも手を
引いて良いぞ。後の面倒は私がきっちりと見させてもらう。」
「 お前さん、いい性格してるね?」
捲簾がニヤニヤしながら言う。
「 それと一番大事なことを言い忘れていた。」 と敖潤。
「 私は今でも貴様が大嫌いだ。一刻も早く失脚するが良いっ!」
そういうと、敖潤は懲罰房から出て行ってしまった。





一週間後、
「 天蓬元帥は思いの外早い回復を遂げられたので、療養期間を途中で
打ち切って戻ることにされた。」
という通達があって、西方軍は皆で小躍りして喜こびあった。
しかし、戻って来た天蓬は出掛けて行ったときと同じような辛そうな表情で、
顔の怪我が綺麗に治っているという以外に、良さそうな部分が見られず、
相変わらず元気も出てはいなかった。
改めて皆で、最初の経緯を思い出さざるを得なかった。
そうだった、捲簾が何か乱暴なことをして、怪我をし、心を傷付けて出て
行かれたのだった ・・・ と。

復帰1日目は何事も無く過ぎたか ・・・。
天蓬は執務室から、暗くなってきた窓の外を眺めて思った。
敖潤がわざと訓練や座学講義の無い日を選んで帰してくれたのだから
当然といえば当然だが。
それにしても、捲簾とのことは気にしなくても良いとはどういうことだろうと
天蓬は考えていた。
元の天界に帰してやるといわれた日、嬉しいことには嬉しい気がして、
一瞬にっこりしたものの、その先捲簾と顔を合わせることを考えると、
やはり気分は重たく、また泣き出しそうになっていた。
敖潤はそんな天蓬の後ろに立つと肩を抱き、首を伸ばして横から軽く
口付けし、「 捲簾とのことは気にしなくていいから。」 と言った。
「 全て片付いているから ・・・。」 と。
天蓬にはそれが本当であることを祈るしかなかった。
自分で見に行くことも出来たが、眼鏡が無く、歩き回り辛いことと、最後に
見せた捲簾の険しい様子を思い出すとそれも躊躇われた。

ノックの音があって、「 私です。」 と永繕の声がした。
「 もう帰らせて頂きますので、その前にお茶をお持ちしました。」
永繕が茶を出すと、天蓬はコップにコツンと指をぶつけた。
仕方なく手を持ってコップまで導き、握らせてやる。
「 それを何とかなさらないと、どうにもなりませんな。」 と永繕。
「 そりゃまぁ、西方軍全員が大喜びして見てはいるのでしょうが。」
「 でしょうね。上司がコップも掴めないのを見ていれば、定めし気も晴れ
るでしょう。」
天蓬が溜息を吐く。
「 何の話をしておいでです?」
「 上司の失敗は面白い。 ・・・ ボクも駆け出し時代、そうでした。」
永繕は頭を抱え込んだ。
「 御自身の美貌に全く自覚が無い!」
その時、ドアが開いて捲簾が入って来た。
「 ・・・ ?」
「 今の天蓬様には、名乗らない限り、誰だかも分からないんですよ。」
捲簾にそう言いながら、永繕は出て行こうとした。
「 では、私は消えますので ・・・。」
残された天蓬は何が起きたのだろうという顔をしている。
永繕が出て行ったのを見ると、捲簾はドアに鍵を掛けた。
カチリ ・・・ と、内側から施錠される音を聞いて、天蓬が、「 捲簾 ・・・?」
と問い掛ける。
「 ああ ・・・。」 という答えが返ってきた。
しかし、天蓬には捲簾の表情が見えず、怒っているのか笑っているのか
も分からない。
不安そうな顔をして、ぼんやりとした人影に目を凝らした。

いきなり太く硬い手が伸びて、天蓬を抱きしめた。
「 会いたかった ・・・。」
「 本当ですか?」
天蓬が尋ねる。
「 ああ ・・・。」
「 もう、怒ってはいないのですか?」
「 最初から怒ってなどいなかった。」
「 そんなことは無い筈ですが ・・・。」
更に不安を問うと、
「 いいや、そうだ。お前が余り悲惨なことを言うから、混乱してお前を殴っ
たが、そんなことをしたかった訳じゃない。
殴りたかったのは、お前にそう感じさせたどこぞの畜生だ。」
そう言いながら、捲簾は天蓬を引き寄せ、頭を抱えるようにして自分の胸
の中に引き寄せた。
心地良い暖かさが全身に広がってゆく。
捲簾はそのまま天蓬を部屋の奥へと導き、窓のカーテンを引いた。
「 もう一回、やらせてくれる ・・・?」
「 あなたが ・・・ 懲りていなければ。」
と天蓬は頷いた。
「 でも、今度は俺のやり方でやりたいんだが ・・・?」
「 任せます ・・・。」
そう言いながら、天蓬は捲簾の背中に手を回した。
「 任せて。」 と捲簾。
「 何もしなくていいから。一回だけ、全部俺に従ってくれるか?」
「 はい。」
捲簾は天蓬に唇を重ねた。
やはり口付けは苦手らしい、どちらかというと閉じたがっているとしか思え
ない唇に無理に割り込み、逃げようとする舌を絡めとって吸い上げる。
一瞬瞳に恐怖の表情が浮かんだが直ぐに消え、代わりに背中に回された
手に力が入った。
角度を変え、何度も口付けを与えると、その力も徐々に抜けていった。
「 どう ・・・?」
暫くそれを繰り返してから、捲簾が聞いた。
「 ええ ・・・。」 というどちらともつかない答えであったが、嫌がってはいない
ようだ。
口付けの場所を首筋に移しながら捲簾は耳元に囁いた。
「 以前に何があったのかは知らないが、それはセックスの名を借りたお前
への暴行だから ・・・。忘れてしまった方がいい。いや ・・・ 俺が忘れさせ
てやるから。」
そんな風に言い聞かせ、「 怖くないよな ・・・?」 と確かめると、赤くなり
ながらも素直に頷いている。
捲簾は力の抜け始めた天蓬の身体をソファに横たえると、口付けの位置
を下に移しながら洋服を脱がせていった。
もう二度と傷付けぬように、壊さぬように ・・・ と細心の注意を払いながら、
捲簾は、腕の中に捉えている天蓬を少しづつ蕩けさせようとしていた。





・・・ 省略 ・・・

   朝チュンでは無い奴でも何でも、勝手に想像して下さい。
   人のを読む分には、決して嫌いという訳ではありませんが、
   サーバーの規約で、アダルトな内容は掲載出来ません。
   「 何時もの手順だ 」 と思う方はそのように思って頂いて結構です。





ことが済んで、身体から捲簾のそれが引き抜かれると、天蓬は生まれて
初めて味わう奇妙な喪失感に戸惑った。
これまでについぞ経験したことが無く、ようやく知った快感の余韻に浸っ
ていただけに、もう少しそのままにしておいて欲しかったのにと、生まれて
初めて不満に思った。
ぼんやりと力の入らぬ目付きであらぬ方向を見ていると、捲簾が自分で
吸って火を点けた煙草を天蓬に咥えさせてくれた。
天蓬が一息吸い込むと、口から煙草を摘まみ上げて自分の口に運んだ。
「 どんな?」 と捲簾が訊いた。
「 なるべく痛みの無いようにしたつもりだったんだが ・・・。痛い時、止めて
馴染むのを待つことだって出来るんだぞ?ただ、それにはお前が自分で
そう言わないとさ。」
天蓬は答えなかった。何処と無く表情も虚ろである。
「 やはり、相当痛んだのか。大丈夫か?」
「 痛くはありません。 ・・・ いや、痛かったです。」
「 どっちなんだ。」
「 いえ ・・・。でも ・・・ ボク ・・・ ボクは ・・・。」
天蓬の綺麗な両目から今度こそ捲簾の前で、どっと涙が溢れ出した。
「 お前 ・・・。」
それまで見たことも無かった光景に捲簾は、驚きながらもある種の感動
をもってそれを眺めた。
目を大きく開けたまま泣くのかこいつは ・・・。
しかもその見開かれた目が絶品の翡翠の目と来ている。
初めて見た天蓬の涙に、これを見せ付けられたら敖潤ならずとも自分を
叩き斬りたくなるはずだ、と大いに納得したものである。
しかし ・・・ 綺麗だと喜んでばかりもいられないか。
「 何で泣いてるんだ?」
理由を尋ねてみる。
「 自分がどれだけ酷いことを言ったか、今やっと分かりました。」
天蓬は相当にショックを受けている様子である。
「 そうか、じゃあ自分の思っているのと違うって分かってくれたんだ?」
天蓬は頷いた。
「 同時に自分が貴方にどれだけ滅茶苦茶な言い方をしていたかも。」
「 いや ・・・ それはもういいから。第一もう忘れるって約束したろ?」
「 でも ・・・。今言っているのは、ボク自身のとった言動のことです。」
「 もういい。・・・ いいんだって ・・・。」
そう言いながら捲簾は、天蓬の手を引っ張ると、「 風呂に入ろうぜ。」 と
誘った。

風呂から出て、バスローブ一枚を引っ掛けて身体を冷ましていると、後で
出て、タオルで髪を拭いていた捲簾が戻って来た。
ローブが一枚しかないので、捲簾の方は全身をタオルで拭って普段通り
の洋服を着ていた。
「 まぁ、ちょっと惜しいような気もするが ・・・。」
そう言いながら、ポケットから取り出したものを天蓬に渡す。
「 眼鏡 ・・・。」
「 いくら綺麗でも、自分たちのボスが毎日あちこちぶつかりながら歩いて
いるってのも何だからな!」
眼鏡を受け取ると天蓬は早速それを掛けて、にこっとして見せた。
やはり、無いと心許無く、不安感があるものなのだろう。
「 それとさ ・・・。さっきのことだけど、あれもう一切無しってことにしような!」
「 はぁ ・・・?」
「 だって、あの時直ぐに気付いてやれなくって可哀想なことをしちまった
けどさ、あれは、俺を ・・・ つまり ・・・ 」
捲簾はそこで少々言い難そうにして口篭った。
ややあって、思い切ったように続ける。
「 痛もうが何しようが、受け容れるって、そこまで決心してくれたってこと
だったんだろ?」
天蓬は、恥ずかしそうに頷いた。
所詮は間違った知識の上に成り立った誤解の産物でしかない。
「 サンキューな!本当はそんな風にしたい訳じゃないんだけれど、
まぁ、気持ちは嬉しかったよ。
だからもう ・・・ 気にするな。何もかも忘れてしまえ。出来るだろう?」
「 ええ ・・・。」 と天蓬。
「 そこまで言って貰ったら、もう蒸し返しません。」
「 ならいい。」
捲簾は安心したように言った。





翌朝、眼鏡を手に入れ、表情の明るくなった天蓬が早速、調練場で今や
骨折から完全に回復した捲簾と手合わせしている姿が見られ、西方軍の
兵士達は久し振りの光景に沸いていた。
「 お前って、眼鏡を取り戻したと思ったら、急に強気なのな!」
捲簾が叫ぶ。
「 理由はちょっと違いますが、まぁ、それもあります。」
天蓬が答えて言う。
「 本当の理由ってのがあるのか?」
「 ありますが教えてあげません!」
喋っている間に僅かに隙が見えた気がして、捲簾が猛然と天蓬に突っ
込んでいったが、待ち構えていたように捉えられ、剣を弾き飛ばされて
しまった。
「 残念でしたね!」
喉元に自分の剣を押し当てながら天蓬がにっこりと微笑んだ。
「 微笑みながら言うな!」 と抗議しようとすると、「 潔く諦めろ下手糞!」
と後ろから野次が飛んだ。
振り返ると敖潤が朝から調練を見に来ている。
「 あんたなぁ ・・・ !」
「 天蓬、そ奴が物足りなければ何時でも言ってくれ。相手してやるぞ。」
「 要らん!こいつは俺を負かしているのが楽しいんだっ!」
「 下らない趣味だ。」
言うと敖潤はとっとと引き返して行ってしまった。
「 あいつでも冗談を言いに来るってことがあるんだな?」
捲簾は今しがた負かされた相手だということも忘れて、天蓬に不思議
がってみせた。
「 元々とても情熱的な人なんです。それに ・・・。」
その先は捲簾の耳元に小さく囁かれた。
「 多分ボクたちが、もう出来た関係だと知ってからかっているのでしょう。」
「 からかっているだけならいいが ・・・。」 と捲簾は渋い顔をして見せた。
「 ・・・ ったく、今ここで、お前を賞品に試合でも組んでみろ。全員参加し
ちまうぞ。お前、年齢的にもここの大抵の兵士より年下だしな。」
「 何で、ボクを賞品にするところなんか、想像しているんです。」
「 え ・・・?」
その声の調子に思わず顔を見ると、何やらお怒りの御様子で ・・・。
「 2度目、やられたいみたいですね。」
天蓬が真面目な顔をして真剣を構え直すと、唇を舐めてニヤリと笑った。
こうなった時の天蓬に勝てる者など、この世には居ない。




















外伝2巻 口絵 クリックして下さい♪
   ―― 迷 路 ――

   2007/09/14
   2007/10/02 書き直し
   天蓬心理分析 ( 独自解釈 ) 実験中
   written by Nachan

   無断転載・引用は固くお断りします。

   ブログへのリンク
   http://akira1.blog.shinobi.jp/

   素材提供:Heaven's Garden
   http://heaven.vis.ne.jp/










NOTE :

はい!ついにやってしまいました。捲簾/天蓬初めて物語!
思いっきり泣き虫の天ちゃんが登場し、美しく(?)妖しく(?)
泣き通してくれます。
( 何を言ってるんだか ・・・。( ̄_ ̄|||) どよ〜ん )

この手の物語って、みんなそうなのかも知れませんが、男同士
という設定になってはいるものの、読んでお分かりのように、
片方が完全に 「 女性として 」 描かれています。
最初から甘い男女の恋愛が書きたかっただけなんですよね!

ただ、本当に日本人の男女を思い浮かべてしまうと、
女性の方を軽蔑せざるを得ず、上下関係も生まれてしまい、
現実の男性が持っている女性への嫌悪感を反映してしまう。
そこから逃げた結果、行き着くところが、BL作品 ・・・ という
ところでしょうか。

どちらもが人間である付き合い ・・・ 一生手に入らぬと分かって
いながら、やはり、憧れてしまいます^^