―― 菊 花 ――












先程自身が突き落とした獲物を部下達が処置するのを、捲簾は崖っ淵に
腰掛けて、暇つぶしに暫く眺めていた。
別に勝利の快感に酔えるほどの相手でもなかったし、達成感も無い。
ただ、岩山を複雑に渡る風が、丁度捲簾のいる辺りに吹き降ろして来るの
を楽しんでいた。
湿気と縁の無い乾いた風に捲簾の短く刈り込まれた黒髪が軽快に踊る。
僅かに汗ばんだ皮膚が乾いてゆく感覚が心地良かった。
とは言え、岩ばかりのこの景色では余りにも情緒が無い。
天蓬だって折角の降臨なら、もうちょっと景色の良い所に降り立ちたかった
ろうにと、ふと、新しく仕えることになった上官に思いが及んだ。
そう言えば俺って、しょっちゅうアイツのことを気にしてんのな!
改めてそう自覚した途端、複雑な気分に陥って苦笑した。
何の因果で選りにも選って、あんな怒る際にも微笑みを浮かべて見せる
ような男なんかに ・・・。

岩山に巣食い下界人を殺傷するという妖怪集団の討伐に天界西方軍の
一部が借り出されていた。
数が多いとは言うものの、統率されてもいない小物妖怪の一群で、作戦と
いうほどのものも無く、ちょっとした狩猟気分で出掛け、しかもそれで充分
に事足りるといった半端仕事であった。
面白味の無い仕事に飽き始めた時分に、「 大将、終わったようです。」 と
報告が入り、捲簾はやれやれと集合場所に引き上げた。
流石に現場志向の天蓬もこの時ばかりは、部下達に付き合わず、報告を
待って集合地点で大人しくしているから、と皆を見送っていた。

捲簾が戻ってみると、天蓬の姿は見えず、戸惑っていると岩陰から白く
細い指が差し出されて捲簾を招いた。
「 ちょっと、待ってて。 」
部下にそう言い残し一人そこに向かうと、岩陰に天蓬が蹲っていた。
「 何やってんだ?お前?」
問い掛けると、天蓬は俯いたまま頼んできた。
「 体調が悪いということにして貴方が連れ帰って下さい。」
俯いているため良くは見えないが、顔色も悪く唇から色が抜けているよう
にも思えた。
「 悪いということにしてって ・・・。」
嫌な予感がした捲簾が、飛び掛って普段から負傷などを隠そうとする嫌い
のある天蓬を押さえ付け、有無を言わさず全身を視診しようとする。
詳しく調べるまでもない。天蓬は肩を撃ち抜かれていた。
「 この怪我、内緒にしたいんですが、隠したまま連れて帰って貰えませ
んか?」
普通に考えて任務実行の際の負傷を隠す理由など無い。
捲簾は押さえ付けたままの天蓬に馬乗りになって胸を肌蹴させた。
肩の付け根に近い部分を見事に撃ち抜かれている。
「 お前ともあろうものが ・・・。」
文句を言いかけて、更に最悪な事態に気が付いた。
火傷様の入弾痕が肩の後ろ側にある。
「 これは ・・・。後ろから前に貫通しているじゃないか。」
「 秘密にしておいて欲しいんです。」
「 敵の気配に鋭敏なお前が ・・・。しかも皆の行き先を見守っていたろうに!」
味方にやられたな?と、漆黒の瞳の険しさが無言の内に問い詰める。
「 お願いですから ・・・。」
怪我の深刻さが分かってみれば、先程からの天蓬の声が普通過ぎたこと
にも違う意味合いが見えてくる。
懸命に平常通りに振舞おうとしながらも痛みが強いのだろう、意識が遠退
こうとするのに抗って声に混ざる僅かな震えが、今は聞き取れた。
捲簾は折れた。
「 一つ貸しだからな!」
言いながら、捲簾は胸元の止め具を元に戻し、岩に天蓬の身体を凭れ
掛けさせた。
皆のところに戻って毛布を借りると取って返して、天蓬の肩から掛ける。
それを身体にも巻き付けて毛布ごと抱え上げ、仲間の前に姿を現した。

戻った上官2人のその姿に全員がざわめいた。
「 お怪我でしょうか?」
「 いや ・・・。貧血だそうだ。」
「 担架を ・・・。」
「 いい。天蓬はそんなことを周囲に知らせたくないと言っている。
俺が抱えて帰って、そっと部屋に運び込むから、お前達も他言無用だぞ。」
「 はぁ ・・・。」 永繕が近寄って天蓬の顔を覗き込んだ。
「 何と酷いご様子で。お顔に血の気がありません ・・・。」
そう言い掛けて、はっと息を呑む。
捲簾はその視線の先が、毛布から僅かに染み出した血液であることに
気付いた。
素早く永繕に顔を寄せ、「 言葉にするな。眼鏡を外せ。」 と囁く。
頷いて永繕は上げかけた声を噛み殺して、天蓬から眼鏡を取り去った。
天蓬の白く整った面立ちに周囲の注目が集まったのを見計らって、捲簾
は今度は周囲にも聞こえる音量で声を掛けた。
「 すまんが、それはお前が持っていて、後で部屋に届けてくれ。」
そう言うと、天蓬を抱えたまま部下達に背を向け、先にゲートに向かって
歩き出した。

肩の銃創に手当てを受けながら天蓬は空いた手でコーヒーを飲んでいた。
本来ならまだ相当の痛みもあろうに、天蓬は傷の方を見ようともせず、
触られても表情一つ変えない。
コーヒーを口に運ぶ手付きは滑らかで、動作も綺麗に連続している。
しかも結構美味そうに飲んでいて、口に含んだコーヒーの香りの良さに
嬉し気に目を細めたりもしていた。
「 本当にいいのか?」
捲簾が念を押した。
「 貧血で何日も休む訳にはいきませんからね。大丈夫、今日は座学の
講義を打つだけで、実技の無い日ですから。」
「 じゃあなくて ・・・。このままそれを不問に伏していいのかと聞いてるんだ。」
「 ええ。それで結構です。で?何人にバレました?」
「 見られたのは永繕一人だが、彼の小隊全員が知っていると思っておいた
方がいい。」
「 上首尾ですね。彼らなら無茶もせず、話も外に持ち出しません。」
手当てが終わり、捲簾が手伝って服を着せてやると、天蓬は意外に軽快
に立ち上がり、身体を動かして腕の動きを試しながら、包帯がどの程度
動きを拘束するかを確認している。
「 さて、行って来ましょうか。」
納得出来たらしく、ドアに向かって歩き始めた。
それを呼び止めて、捲簾が 「 おい、一つだけ教えろ。」 と声を掛ける。
「 危険は去ったのか、まだなのか?」
「 去ってはいませんが、生きている限り誰もが危険を背負っているもの
でしょう?」
言い残して天蓬は部屋を出て行った。

誰かが味方しか居ない筈の位置から天蓬を撃った、と捲簾は思っている。
さもなければ、あの天蓬が容易く銃撃の的になどされる訳が無い。
しかも、天蓬は発射音や弾の飛来音を聞いてからでもある程度動ける
俊敏な反射神経の持ち主で、その際の動きは的確に被害が最小限に
なる方を選ぶという稀有な才能まで持ち合わせている。
「 被害を最小限に縮小して、肩を貫通ってか?」
と忌々しそうに呟く。
何かが内部から天蓬を狙っている ・・・。
そして、一番気に食わない点は ・・・ と捲簾は検証して得た自身の答えに
歯噛みした。
天蓬自身がそれを正そうとしない点だ。
神格である天蓬の怪我は致命傷を免れた今、時間の経過と共に跡形も
なく回復するだけのものだが、燻りながら内部に存在する危険を放置
するとは、何を考えているのやら ・・・。
少しも本音を見せようとしない新しい上官に捲簾は苛付いていた。





――― 2ヵ月後 ―――

西方軍は、今やすっかり冬景色を見せるようになった下界に降りていた。
ほぼ3日間を戦闘に費やしたが、夜明け前に最後の敵を片付けて、後は
帰還準備だけというところである。
最後の戦闘を終えた部下たちが野営の撤収作業をしているのを横目に
眺めながら、捲簾は煙草を吹かしていた。
生来身体を動かすのが好きで、こうした雑多な仕事に手を貸すのにも
吝かではない捲簾ではあったが、西方軍に移籍してからは自ら意識して
それを手控えていた。
自分が雑務にまで気軽に手を貸せば、部下達が天蓬にもそんな期待を
寄せるようにはならないか、という懸念があった。
しかも、天蓬本人が官位などに拘りを持たず、望まれれば手を出しかね
ない性分と来ている。
余程の負けず嫌いに生まれついたか、嫌というほど 「 文官向き 」 に出来た
身体で、敵・味方両方を唸らせるまでに実戦に強みを見せ、一歩も引かぬ
天蓬は美しくも悩ましき存在であった。
そもそも軍師が戦場に出ていること自体が既に間違っているのだろうが、
それを言うなら、大将位で現場を指揮するに止まらず部下達と共に実際
の戦闘に参加している己にも身に覚えの無い話ではない。
互いに年齢的に司令室で指揮だけを取れるほどには枯れない内にこの
地位を手にしてしまい、騒ぐ血の気の鎮め所に戸惑っているのだろうと、
捲簾はその点では、天蓬に一部理解を示していた。
とは言え、戦闘以外の雑務にまであの 「 儚い 」 としか言いようの無い
肉体を酷使させるのも惨い話だ。
どうせ帰還を果たせば直ぐに軍師としての役割に戻り、それはそれでまた
消耗を強いられるであろう頭脳労働に就くはずの天蓬に、ちょっとした
休息を与えるためにも、自分も動かず寛いでいた方が良いだろうと考え、
撤収作業時には敢えて油を売ることに決めた捲簾であった。

吐き出す煙が昇ってゆくのを見上げる。
その背景となる空は何時もより低く、一面灰色である。
未明の戦闘中にも降りしきり、その後明け方までに大量の雪を降らせた
天候が、まだ回復しきっていない状態であった。
ふと背中に視線を感じて振り向くと、直ぐ後ろまで迫った永繕が、黙って
自分を眺めていた。
何処と無く戸惑ったような、救いを求めるような頼りない目付きだ。
「 永繕 ・・・。どうした。」
「 はぁ ・・・」
煮え切らない返事を返しながら永繕が寄って来て、捲簾に並ぶ。
真横に立った永繕に煙草の箱を突き出し、目に前で軽く上下に振ってやる
と、永繕は端からはみ出た一本を摘まみ出して唇に咥えた。
更にライターを差出し、それに火を点けてやる。
永繕がふうっと息を吐き出したところを見計らって捲簾が問い掛けた。
「 ・・・で?あの馬鹿、今度は何を仕出かしたって?」
「 いや、そんな ・・・。」
捲簾の言葉に殆ど咽せそうになりながらも、永繕は直ぐにそれを否定した。
「 それ以外の理由で、お前さんがそういう顔をするとも思えんけどな?」
やられた ・・・ という顔をしてにやりと笑った永繕は、二口目の煙草を
ゆっくり吹かし始めた。
その表情の緩みに、一応喋る気にはなったことを確認すると、捲簾は自分
の喫煙を再開し、ただ話の続きを待った。

「 天蓬元帥は何もなさっておられません。わたしが勝手に心配をしたと
いうだけの話です。」
永繕が予め釘を刺す。天蓬の子飼いだけあって聡い男だ。
「 ああ・・・。で?天蓬は今どうしてる?」
「 雪原の方です。あちらは既に片付いておりますので、そこでお待ち頂く
のは構わないのですが ・・・。」
永繕の言葉は何時に無く重く、切れ切れだ。
伝えたいことは有るが、敢えて口にしたくはないとでもいった内容なのだ
ろう。
「 あ、そ? ・・・ いい。自分で見てくる。」
煙草を投げ捨て、踏み潰しながら捲簾は言った。
「 はぁ ・・・。」 と、永繕は申し訳無さそうにしたが、それでも、先程から
後生大事に抱え持っていたマントと水筒を差し出した。
「 お願いします。」
「 マントと水筒 ・・・?」
改めて差し出された物資の名前を口にすると、永繕は顔を赤らめて項垂
れた。
「 分かっています。天蓬元帥は子供ではなく立派な軍人だということくら
いは。だのに、あの方を見ていると雪原に立って居られれば居られたで、
そのまま凍死されるまで立ったままではないかとか、そういう要らぬ心配
が頭を離れません。」
「 まさかね ・・・。」 と捲簾は笑って見せた。
「 そんな、年端のいかぬ子供じゃあるまいし!」
「 ・・・ とは、私も思うのですが、実はマントも水筒も、私の部下からの
預かり物です。自分達では差し出がましいので私に届けて欲しいと、託され
たものなんです。
まぁ、私にも差し出がましいのは同じというか、そういう時のあの方の制御
には自信も無くて、貴方にお願いしようとしているのですが。」
「 つまり ・・・ 複数の目に天蓬が凍死志願に見えるってか?」
「ちょ ・・・ ちょっと!」 永繕は大慌てで目の前に持ち出した両手を振った。
「 そこまでは言っておりません!違いますってば!」
「 分かった、わかった!」
流石に気の毒になって捲簾は言い止めた。
「 とにかく見てくる。」
と、マントと水筒を抱えて歩き出した。

戦闘の形跡を消され、一面白い雪の平原となった中に、黒の軍服を着た
男が独りぽつんと佇んでいるのだから、居場所は直ぐに分かった。
見付けた天蓬のその様子に、思わず眉根に皺を寄せる。
天蓬は顔を仰け反らせるようにして落ちてくる雪を真上に眺めていた。
遠い一点から広がるように舞い落ちる雪の動きを眺めていると、眺めて
いる我が身が雪片の道程を遡って遥か上空の始まりの一点に収斂されて
ゆきそうな錯覚に陥ってゆく。
眩暈にも似たその不安定な感覚が戦闘に疲れた身体に心地良かった。
「 また降ってきやがったか。」
相手の気配に気付いていながらも、なお熱心に落ちてくる雪を眺めている
天蓬に近付くと、捲簾はそんな風に声を掛けた。
言われた天蓬はゆっくり首を戻して、近付いてくる捲簾ににっこりと微笑
んだ。
「 綺麗ですねぇ、捲簾。周りも白一色だし。本当に美しい世界です。」
「 ああ ・・・。」 と軽く相槌を打つ。
「 ほれ、差し入れ。」 言いながら、後ろに廻ってマントを掛けてやると
微笑が不思議そうに問い掛ける表情に変わった。
構わず今度は水筒を開けて熱い茶を注いで渡す。
「 何時からこんな雑事までしてくれるようになったんです?」
受け取りながらそう訊いてきたが、その言い方には何の邪気も無く、まるで
子供の質問のようだと捲簾は思った。
「 半年前から。出合った最初から良くしてやってるだろうが?」
「 はぁ ・・・。」
曖昧な笑みを浮かべたまま、天蓬は渡された茶に口を付けた。
「 あはは ・・・ これは。永繕達の誰かですね。」
「 ほう?」 と捲簾が片眉を上げて理由を知りたそうにすると、天蓬は水筒
の蓋を返して寄越した。
「 貴方も試してみれば分かります。人参入りです。」
余程不味かったのだろう、天蓬は自分の煙草を出して口直しをすべく、
急いで一本を咥えた。
捲簾がライターを取り出して火を点けてやった。
「 体力面で信用されていないんですよ。」
煙を吐き出している自分の顔を覗き込んでいる捲簾に気付いて、天蓬は
そんな解説をして見せた。
「 それは違うと思う。」
捲簾に言下に否定されて、天蓬は驚いたようにほんの一瞬動きを止めた
が、捲簾で無ければ察してはいるまいという程度の瞬時でそれを断ち切り、
そのまま続けて煙草を吹かし始めた。
「 あいつらはみんな、お前の戦闘能力には絶大な信頼を置いていると
俺は思ってる。着任して最初にお前に手合わせ願った時にな ・・・。」
捲簾は大きく息を吐いて、思い出すように低い空を見上げた。
「 何人かに忠告を受けた。大将、手合わせ中には、絶対に元帥が軍師
だということを思い出されないことです。それと、あの方の容姿も思い
浮かべない方が御身のためです。 ・・・ てな!
馬鹿にしやがってと、その時は思ったが、病錬に担ぎ込まれてから、奴ら
が存外、俺を好意的に迎え入れてくれていたのだと分かった。」
「 ええ。」 と天蓬は軽く言ってのけた。
「 気に入られていましたよ?貴方ほどすんなり西方軍に迎え入れられた
上官はいませんでした。」
捲簾は頷いた。
「 お前、その理由を知ってっか?」
「 貴方の武勇伝が結構知れ渡っていたからでしょう?敖潤閣下には余り
お覚えめでたくは無かったでしょうが、若い者にはそれなりに ・・・。」
「 違うね。」
捲簾は天蓬の言葉を遮ったが、今度は天蓬に驚く様子が見られなかった。
既に話がこういう流れに向かうと見切っていたのだろう。
「 初日に、お前が俺を適当に気に入っている様子だという噂が流れたんだ。」
「 そうですね。」
最初違った方向に理由を導きたがっていた割には、天蓬はこれをも実に
あっさりと認めた。
「 ボクは恵まれた立場にいます。陰謀・策略の多いこの世界では、異様
な位に仕合せな境遇ですね。」
すらすらと言ってのけた天蓬の顔には先程チラと見せ掛けた動揺の色は
既に無く、代わりに何時もの穏やかな微笑が浮かんでいる。
薄く形の良い唇と絶妙の角度に持ち上がった口尻に形作られた曲線は、
誰の目にも絶品と映るものであり、ある意味天蓬はその微笑を戦闘時
以外の仕事面にも巧みに利用している節があった。
しかし同時に、今一つの彼の特徴とされる翡翠色の目の中に、隠し切れ
ぬ暗いものがあるのにも捲簾は気付いていた。
にこやかに微笑んで異様な位の仕合わせの話をしながら、心が仕合わせ
など欠片も感じていないのが透けて見える。
笑顔 ・・・ と認識した途端、ふいに沸きあがった怒りに似た感情に捲簾の
中に元からあった苛立ちが頭を擡げた。そして苛立ちが一つの形をとった。
ぐいっと天蓬の両肩を掴むと一つ強く揺す振って、「 で、何が足りない。」
と大声で怒鳴り付けてしまった。
「 美しい白い景色の中でこのまま終わってしまえれば、と思えるほどに
何に苦しんでいる?」
長身の大男によって繰り出された強い力で位置を固定された肩の上で、
繊細な顔が一旦翳りを帯びて俯いたが、直ぐに意識して気持ちを建て直し、
次いで顔を上向けて見上げる双の目には怒りの火が灯っていた。
同時に右肩を掴んでいた捲簾の左手に強い反動が加えられ、あっという
間に拘束から逃れた天蓬の右手は相手に避ける間どころか、身構える間
も与えぬ速さで動いて、捲簾が 「 やばい!」 と思った瞬間には、その白く
小振りで、その癖強烈な破壊力を有する拳が彼の鳩尾に深く突き刺さって
いた。

崩れ落ちるように雪の地面に膝を着いて身体を2つに折り曲げた捲簾に、
天蓬は立ち去ろうとしながら声を掛けた。
「 今度やったら、射殺しますよ。それと ・・・。ボクの気持ちを勝手に推測
しないで下さいね。」
「 待てよ。」
捲簾が折り曲げた身体を伸ばせぬまま、荒い息を吐きながら、それでも
なお良く通る大きな声で天蓬を呼び止めた。
「 推測しないで下さいね ・・・ しか、言えねえんだろ?え?言ってみろよ。
終わらせたいなんて考えてもいなかったって言ってみろ。
そしたら謝ってやるから。」
その言葉に天蓬はビクリと身体を振るわせて立ち止まった。
振り返ることはせず、両手を胸で交差させて自分を抱くような動作をした
が、それが震えを止めようとしているようにも見える。
今荒事を熟 (こな) したかと思えば、その次にはこういう所作を見せるのも
この数ヶ月の間に捲簾が覚えた天蓬の性癖ではあった。
しかし、口を衝 (つ) いて出た言葉は、そういった儚なげな動作からは
ほど遠いものであった。
「 特に謝罪は要りません。」
振り返ることなく天蓬は一人で立ち去った。





その後、ワザトに少し遅れて天界に帰還した捲簾は、天蓬を回収して先に
戻っていた永繕から、思いも寄らぬ笑顔の出迎えを受けて驚いた。
気が咎めて真っ直ぐに自室に引き上げようとする捲簾の足の速さに合わせ
小走りになりながら無理矢理に横に並ぶと、礼の言葉を掛ける。
「 先程はありがとうございました。」
「 ああ ・・・ 怒らせちまったからな。却ってとっとと戻っていったろう。」
捲簾は苦笑いを浮かべたが、永繕は 「 はぁ・・・?」 と不思議そうに首を
かしげ、「 怒ってなどおられませんが?」 と答えた。
「 どうせ、目一杯ムカついてるくせに、穏やか〜ぁに微笑んでやがった
んだろう。」
しかし、永繕は首を横に振ってそれをも否定した。
「 お言葉ですが、私は当初から天蓬様付きの仕官としてここに居ります。
幾ら何でも、あの方が怒りながら笑っていらっしゃる時にはそうと分かり
ます。」
「 ふーん!」 と鼻で返事をしながら、捲簾は辿り着いた自室の戸を開け、
入ると同時にソファに沈み込んだ。
ふと気が付くと、永繕も一緒に部屋に入ってきており、自分の足元に来て
軍靴を脱ぐ手伝いをしようと屈みかけていた。
「 いや、俺の世話は良いから。天蓬のところに戻って、風呂に入れと言って
やってくれ。身体も冷えてたろうしな。お前、天蓬が風呂から出るまで、
その場に居ろよ?あいつには浴槽で居眠りをする癖があるんだからな。」
しかし返事が無い。
見上げると、永繕は真っ赤になって両手の掌をこちらに向けて否定を示し
て振り回している。
「 滅相も無い!あの方が人の居るところで入浴など ・・・。そんな簡単に
無防備になられる訳がないでしょう?見た目は兎も角、あれでいて軍人
らしい軍人でいらっしゃるのですから。」
「 へ?」 と捲簾は、自分にすら間抜けに聞こえる高い声を出した。
「 やらねえの?」
「 当然です!」
ようやく足から離れた軍靴を脇に放り投げると、普段履きの少し柔らかめ
の皮の短靴を取り出しながら、捲簾はふと思い付いて永繕に向き直り、
予てから疑問に思っていたことを問うてみる気になった。

「 あのさ ・・・。以前俺が初めて天蓬に手合わせを願った時、アドバイスを
くれた連中の中にお前も居たよな?」
「 はい。」
「 なんで、いきなり現れた俺に味方した?」
永繕が困ったような表情を浮かべる。
「 いや ・・・ 我々、天蓬元帥が一対一の練習試合で負けるところなど初手
から想像出来なかったものですから、大将の方のお怪我が軽いに越した
ことはないかな ・・・ と。
なにしろ、3度くらい気に入らない部下を迎え入れて、神経質になって
おられた折でしたので、折角気に入ったと仰るあなたに逃げられては ・・・
と案じてしまいまして ・・・。」
そうだというように捲簾は頷いた。
「 お前、以前にもそんな風に答えた。でも、何だって俺が気に入られたと
思ったんだ?」
「 ですから ・・・ 3度の立て続けの失敗の後だったので、我々も心配で、
叱責覚悟で元帥に直接伺ってみたのです。今度はどうかと。」
「 ほう ・・・ で?」
「 御自身がそういう感想を口に出される方で無いので、一瞬キッとなさい
ましたが、我々の心配顔に事情を察されたようで、お答えを下さいました。」
「 何て?」
「 頗る気に入ったと。
自分が元帥だと聞いて、『 嘘 ・・・ 』 と驚いていたから、正直者のようで
すね ・・・ と仰ったように記憶しております。」
捲簾は両手を広げて肩を竦めて見せた。
「 確かに普通に考えて気に入る理由ではないのでしょうが、その時今の
貴方のように怪訝そうな顔をしたであろう我々に、重ねて 『 馬鹿な姿を
見せた時に馬鹿だと見てもらえたのですから、賢く振舞って見せれば
賢いと言ってもらえるかも知れませんね。』 だそうで ・・・。
我々にも真意は分かりません。ただ、経験上、その時本心を仰っている
と分かったので納得したまでです。」
「 ふーん?」

「 分かり難い奴 ・・・。」
独りになってから、改めて軍服の襟元を緩め、開け放った窓に腰を下ろし
て煙草に火を点け、寛ぎながら捲簾は考え込んでいた。
煙は風に乗って流されて行き、そのうち外の空気に混じって消えてしまう
が、捲簾の思いはどうしてもあの変わり者の上官から離れたがらない。
同情と呼ぶには事情も分からず、さりとて放って置けもせず、出来るもの
なら、何があるのか分かった上で理解して、俺がいるから ・・・ とでも言っ
てやりたいのかも知れない。
これまでに知り得た天蓬の様々な表情が思い浮かんだ。
討伐命令の出る度に見せる険しい表情と、軍師として指揮を取る際の
抜け目無さそうな鋭い目付き、そして何も無い時の眠たそうなぼんやり
したあの表情 ・・・。
そのどれもが本物でないのは、誰にも予想の着く分かり易さだが、では
本物の天蓬は何処に居る?と考えた時、つい思い浮かべてしまうのが
今朝のような、自然の美しさに同化して消え去ってしまいそうな、あの
儚さだけなのだ。
地位も立場も思いのままじゃなかったのか?
才能にも恵まれ、子供時代から生まれ付き頭の良さが際立つような子供
で、周囲を圧倒してきたとも伝え聞いた覚えがある。
しかも、あの容姿 ・・・。
誰からも羨まれて然るべき存在の筈が、何故かしょっちゅう刹那的で、
死に場所があれば何時でも死にたいといった態度を取る。
今日も今日とて雪原に立って雪を眺めておれば、そのまま埋もれてしまい
たがっていることを、若い下士官にまで気 (け) 取られる始末だ。

煙草を差し替え、見るともなしに窓下の景色に目を遣りながら、更に思う。
斯く言う自分も何度かそうではないかと疑ってみたことがあった。
花の美しさに、晴れ渡った空の青さに、澄んだ月明かりに、何度も天蓬が
魅入られ連れ去られそうになるのを目撃している。
何度否定しようとしても否定し切れなかったその考えが、今日になって
初めて自分一人の悪い想像では無いと気が付いた。
子飼いともいえる永繕たちの認識も己と同じとなるとこれは ・・・ ?
しかし結論は出ず、結局考えが一周回って元の位置に戻る。
堂々巡りという奴だろう。
捲簾の考えは再び、思い浮かぶ儚な気な天蓬の姿に対して、
「 地位も立場も思いのままじゃなかったのか?
恵まれているんだろう?
それなのに壊してしまいたいのか?」
を問い掛けるしかない理不尽で矛盾に満ちた迷路に引き戻されていった。

その時、見るともなしに見ていた向かいの建物の陰で、何人かの仕官
候補生が同じ制服を着た一人を取り囲んで何やら因縁を付けているのが
目に入った。
「 あいつには ・・・。」 見覚えがあるな、と捲簾は思った。
取り囲まれている一人は他の同年輩の少年より一回り体格が悪く、以前
にも仲間から恐喝されているところを見掛けた事があった。
その時は天蓬と一緒だったが、確か天蓬に助けるなと止められたっけ ・・・。
結局、我慢し切れずに飛び込んでいって助けたが、その件で旋毛を曲げ
た天蓬はその後 2・3日、自分に口をきいてもくれなかった。
普段目下や立場の弱い者に優しい天蓬にしては不可解な態度だったのが
印象に残っている。
今日また同じような場面を目撃して、どうするか ・・・ と見ていたが、やはり
我慢が出来ず止めようと窓から跳び降りそうになった時、その少年が不意
に違った動きを見せたのに気付いて思い止まった。
件の少年が急に視線を険しくしたかと思うと、いきなり素早い動作で反撃
に出て、あっという間に一挙に3人を地面にへばらせてしまった。
あはは、強くなってやんの!と思ったその瞬間、捲簾ははっとした。
今の動き ・・・ 稚拙ではあったが基本的には天蓬のそれに似ている。
候補生相手なら充分に通用するその体術は、力より素早さを利用する
もので、今のところ、その粗悪なコピーといった水準であるにせよ、捲簾
自身が何度も天蓬にしてやられた技であった。
はて ・・・ ?
あの時、天蓬は彼を庇った自分を、嫌悪感も顕わに睨み付けたはずだが、
その癖、後でこっそりと手解きでもしてやったというのか?
そうそう ・・・ あいつは、天蓬の兵法講義を受けていて、だから天蓬は
アイツのことを予め知っているとも言っていた。
頭の良い子だと誉めていたのに庇わなかったんだよなぁ?

3人の同胞を伸した少年が制服の裾をパッパとはたいて立ち去るのを
眺めていた捲簾の頭に唐突に一見関係の無さそうな全く別の記憶が
甦ってきた。
何故今なのか自分でも説明の付かない記憶 ・・・。
捲簾の識閾下の認識が働いて表層に伝えてきた記憶とは、ある日の朝の
天蓬との他愛無い遣り取りだった。
執務室でどっぷり本に浸り込んでいたらしい天蓬にいきなり質問をした
ことがあった ・・・。

直ぐにも上に上げねばならない書類に部下5名分のID番号の記入が
必要で、急いだ捲簾が本人達に聞いて回る手間を惜しんで天蓬の持って
いるであろう控えを見せてもらおうとした。
「 ・・・ で、その5名のID番号が要るんだ。お前さぁ ・・・」
控えを持っていないか?と、続けようとしたその時、天蓬が面倒臭そうに
顔も上げぬまま、5名分のIDを読み上げ始めた。
ファイルでもあればと尋ねに来た捲簾なので、メモを取ろうという体制で
すらない。
呆れながら見ている捲簾に、とっとと済ませて本に戻りたがっていた天蓬
は、16桁の番号を5つ読み上げてしまった。
そして、自分の前から立ち去ろうとしない人影に焦れて目を上げた途端、
自分を見て黙り込んでいる捲簾に気付き、天蓬らしからぬ動揺を見せた。
誤魔化そうとするように、「 ボク、寝惚けていましたね。ファイルを探すん
でしたっけ?」 などと言い訳し、普段は手伝いもしない男が立ち上がって
自分でファイルを掘り当て、捲簾に差し出したのだった。
勿論、口頭で受け取った16桁の数字5つを全部覚えていた訳ではなかった
が、ファイルから改めて移し終えた数字を見た捲簾は先程の天蓬が空で
読み上げた数字と似ていると感じた。
自分が正確に思い出せないだけで、多分さっきのが正しかったのだろうと
捲簾には分かった。

・・・ そういう天蓬に纏わる記憶が、今更ながらに捲簾に甦る。
しかし、そんな些細な事がその後もずっと印象に残り続けていたのは、
捲簾がファイルを引き写し、部屋を出るまでの様子を、チラチラと横目で
窺っていた天蓬の仕草が心に引っ掛かっていた所為であった。
それまでの、何事にも全く阿るということが無く、見たいように見れば良い、
自分だって振舞いたいように振舞うのだから、とでも言いたげであった
天蓬の態度とは全くそぐわない、怯えた視線が印象に残った。
普段、人の評価など気にもしない癖に、あの時はまるで ・・・。
捲簾が何時苦情を言うか、何時怒鳴り付けるかと怯えて、竦み上がって
いるという顔をしていたっけ ・・・。

「 一体あいつは ・・・?」
捲簾は声に出して呟いた。
「 一体あいつは、あの時、何にあんなに怯えたんだ?」

帰還後の休息日で特にすることもない捲簾は、日が暮れるまで窓辺りに
座り続け、同じような考えを何度も辿っていたが、辺りが夜の帳に蔽われて
いることに気付くと、取って置きの酒を持ち出して自室を出た。





「 よう、天蓬!」
捲簾が入ってゆくと天蓬は相変わらず本棚にもたれて読書中である。
「 げ!もう机の上が平積み専用本棚に戻ったのか?」
「 はい?」 と天蓬は本から目を離して答えた。
「 何の御用でしょう?」
「 飲もうぜ。今朝の非礼の詫びに取っときを持って来てやったぞ。」
捲簾が携えた酒瓶を振って見せた。
「 ここで ・・・?」
言われて辺りを見回したが、至る所に読み終えたのだかこれから読もうと
しているのだか、書物を撒き散らされた室内には2人が座れるような場所
は無かった。
「 出ようか。」 と捲簾はものぐさな上官を促した。

捲簾は都城の外側に天蓬を連れ出し、先に立って暫く歩き、野生の菊の
群生地へと導いた。
「 何時もいつも桜というのも飽きるからな。」
常春の天界に春の桜が咲き続けるように、菊も常に花を着け続けている。
季節の変化に鍛えられないそれらの花は、少々小振りで地上の夏菊の
ようだ。
それでも満月の月明かりを受けて、群生した花々は見事であり、天蓬も
満更ではないといった様子である。気に入ったらしい。
「 桜なら花の下ですが、菊となると ・・・。」 と辺りを見回す。
「 あそこ ・・・ 」 と捲簾は当然のようにその一角を指差した。
一本の木が立っており、その陰にでもなるのか、花の無い一角が見える。
「 何度も来ていて、お馴染みって感じですね。」 と天蓬は言った。
「 座れよ、飲もうぜ。」 何も説明しようとせず、捲簾はとっとと先に座って
酒瓶を振って見せながら相手を呼んだ。

「 ほう?」 と天蓬が先に一口飲んで目を輝かせた。
「 ボクの好きな辛口だし、良い香りのするお酒ですね。」
「 だろう?」 捲簾がにやりと笑う。
「 取っときだからな。これで朝の件はチャラになんねえか?」
「 ならないでしょうね。」 と天蓬があっさり答えた。
「 チャラにするほどの蟠りも持ち合わせていませんでしたから。これは
まぁ、貴方の心遣いとして有り難く頂いておきます。」
足を投げて座っていた天蓬は片足だけを引き寄せて、杯を持つ手を膝
に軽く載せた。
手足の細長い天蓬は、このように手足を絡める動作をするだけで何とも
言えず色っぽい。
恐らく本人に確かめれば、花を眺めやすいから、というだけの理由なの
だろうが、捲簾には中々そう冷静に見ていられるものではない。
そんな仕草で結構意地の悪い台詞を吐き、クスリと笑う天蓬を捲簾は
改めて美しいと思う。
その美しさの内に秘められた強靭な力にも魅せられた自分を感じる。
それなのに ・・・。
その美と強さの主がそれらを簡単に壊そうと仕掛かるとはどういうこと
なのか ・・・ ?
「 捲簾 ・・・?」 自分への強過ぎる視線を感じて、天蓬が声を掛けた。
「 何を考えているんです?」
「 おまえさんさぁ ・・・ 最近になって悩み事が出来たんじゃないの?」
即座に否定せず、捲簾の杯に酒を注ぎ始めた天蓬に、捲簾は当たった
ようだと感じた。
「 以前はそうでもなかったと皆が言っていた。俺が来てからのお前には、
儚いような印象が出来たと戸惑っていたぞ。」
「 そうですか。」 と自分の2杯目を手酌で注いだ天蓬は、満杯にした杯
を一気に傾け飲み干した。
「 悩み事はありましたよ。過去、それなりにね。」
言いながら花を見遣って、ちょっと目を細める。
「 今は違いますが。」
真意を測りかねて捲簾は向かい合う上官の目を覗き込んだ。
下界の満月を受けて、明るい夜だった所為か、天蓬の瞳の碧も明るい
光を湛えて穏やかに澄んでいる。
その才気と腕っ節が大幅に行き過ぎている事を考えれば、楽な道程では
なかったのではないかと、昼間と正反対なことを考えてみる。
一般論ではないだろうが、天蓬に限っては確かに有り得ぬ話ではない。
才気だの腕前というものは後ろ盾あってこそ認められるもので、後押しの
ない才能など、憎しみの対象でしか無かった筈だ。
そこのところは、天蓬ほどではないにしろ捲簾にも多少その気 (け) が
あって、容易に推測できる。
天蓬の血統は所謂没落組の一つに数えられ、なまじ誇りが高いだけに
野良犬育ちの自分より難儀したろうとも思う。
それにその人目を引く容貌 ・・・ 眼鏡やくしゃくしゃにしたままの髪が少し
も助けにならないまま、月明かりに映えて、ここに玉貌在りと主張して
いる。
後ろ盾でもあれば、流石は誰それ様、容姿までもがそのように祝福を
受けて ・・・ とでも言われるところを、精々が没落家系の癖に生意気なと
しか言って貰えずに来ている筈である。
杯の中身をくいと空け、息を吐いたついでに、捲簾はつい思案の続きを
声に出してしまった。
「 平坦な道程ではなかったのかも知れんなぁ ・・・。」
その時、その場の空気が揺れたと思った。
微かだが天蓬に動揺の兆しが浮かび、杯を持つ手が僅かに引き攣れ、
あくまで平静を装ってゆっくりと振り向けられた目の中には普段とは違っ
た光が窺える。
静もった碧が投げる視線に微妙に混じる熱の熱さに捲簾の方が驚いた。
だが、次の瞬間、天蓬は意識的にその熱を消し潰したようだった。
短い時間に無理矢理消された熱気を瞬時に穏やかな微笑に摩り替えて
美しいが正直とは言い難い顔を捲簾に向け、天蓬は口を開いた。
「 貴方がそれほど人の噂に耳を貸す性質だったのであれば、こうも聞き
及んでいませんか?天蓬は最近、どことなく抜けていると。」
「 おまえ、しょっちゅう抜けてたじゃないか。あ、それ、人に見せ付けて
やりたい時以外にも抜けているかってことか?」
後半部分に皮肉を込めて聞き返す。
「 まぁ、貴方がそういう分け方で捉えているというのなら。」
「 そっちはねえな。」
良かったとも悪かったとも判別の付かぬ顔で天蓬はこちらを眺めている。
ただ、抑揚の無い声で、「 そうですか。」 とだけ言った。
その様子に捲簾は、顎を尺ってもう一杯酒を飲めと合図をし、酒瓶を
持ち上げ注いでやった。
「 なぁ、天蓬?」
「 はい?」
注がれた杯に口を付けながら天蓬が目だけで答える。
「 俺じゃ駄目なのか?」
「 はぁ?」
「 ちっとは自分を甘やかして、俺にくらい正体を見せろや。」
「 失敬な人ですねぇ。」 天蓬が大袈裟に眉を顰める。
「 人を妖狐のように言わないで下さい。それに・・・。」
天蓬が立ち上がり、衣服の裾をはたいた。
「 正体は見せてると思いますがね、とっくに。」
話の行き先が自分に好ましいものではなさそうだとの当りが付いて、場の
御開きの機会を計っているのだろう。
「 ああ ・・・。そんなところだろうよ。あれ全部がお前なんだろう?どうせ。」
「 そんなところですかね。」
「 だったら ・・・。」 既に歩き出そうとしている天蓬に更に声を掛ける。
「 信用のしついでに、もうちょっと信用しろよ。この先も何も悪くはならん。
今がお前にとって一番良い時って訳でもねえ!」
今度こそ誤魔化すことが出来ずに、両の拳を握り締めながら立ち止まり、
思わず振り返った天蓬の表情は、最早何時もの笑顔ではなかった。
いや、これまでに見せたことの無いものがその中に垣間見えさえする。
困惑 ・・・。
湖のような碧の瞳が、これまで一度も見せたことの無かった戸惑いの
表情を見せていた。
天蓬の動揺を見て取った捲簾は更に畳み掛けるように言い募った。
「 お前でもそんな顔、すんのな?」
そんな顔 ・・・ が地の表情だと気付いた天蓬の顔から血の気が引いた。
地の表情を見せそれを捲簾に指摘されさえしたことで、これまで天蓬の
頑なに護ってきた何かが遂に崩れた。
自分も立ち上がって天蓬に追いつこうとしていた捲簾は、天蓬が素早い
動作で振り向き、自分に激突してくるのを避け切れなかった。
こいつ ・・・ 何を急に!
思ったときには利き手をねじ上げられて後ろに回られていた。
もう片方の手で何とかしようと相手の身体の位置を探りかけたとき、喉元
に冷たい殺気を感じて動作を止めた。
天蓬が護身用にと持ち歩いていた短刀がいつの間にか鞘を払われて、
首に押し当てられている。
「 上等だ。」 と捲簾。
「 刺せよ。脅すだけじゃなく、喉を掻き切ってみろ。」
予想もしなかった言葉に相手が僅かに怯んだ隙を突いて巻き返すことも
出来たし、天蓬も自分でそれを感じ取って一瞬身を硬くしたが、捲簾は
短刀を払い除けなかった。

「 いいから刺せ。」 捲簾が重ねて促した。
天蓬には無論刺せない。
次の行動を考えあぐねて動作の止まっている天蓬に、今なら聞く耳もある
かと、捲簾は何時もより低いがはっきりした声で話し始めた。
「 最近の天蓬が抜けていないかだと?気を抜いたことなんぞ生まれて
一度も無いくせに、それをわざわざ確かめるほど、お前は誰にも気を
抜いてはいかんと自分をガチガチに戒めているのか?」
答えは無かった。
「 以前に絡まれていた子供を見て、お前は助けなくて良いと俺を止めた
ろう?あれは、能力の低さを詰 (なじ) られているのでなく、頭のいい子
なので、今一時止めても一生詰られ続けるんです、とか言っていた。
お前、自分自身がそれで傷付けられて立ち直れてねぇんだろ?」
「 違いますよ。」
わざとに捲簾の言葉から一呼吸遅らせ、ゆっくりと澄んだ声で天蓬が答え、
短刀が喉から離された。
詰 (なじ) られ、逆上し、一旦力ずくの解決法を成功させながら、捲簾の
思いも拠らぬ反撃を食らって突き落とされた最悪の動揺から、何とか立ち
直り、今既に自分を取り戻しているらしい。
そうだ ・・・ この男は極端な行動に出たとしても、常に自力で戻って来れる。
どんな場合にも常に自制が利く性質 (たち) なのだ。
・・・ 尤も、その自制の強さがこの男の弱みでもあるが ・・・。
短刀が下げられると同時に、後ろ手に捉えられていた力も緩んだ。
解放されほっとしているとその手に短刀が渡された。
「 仕返してもいいですよ。」
天蓬は声を掛け、捲簾の反応も確かめようとせず、その前に腰を下ろした。
「 確かに、貴方が現れてからボクは友人が出来た気になって気を緩める
のを、臆病なくらい一生懸命警戒し続けていました。
だが、理由は違います。過去の暴行なんかじゃありません。」
捲簾も傍に腰を下ろす。
「 じゃ、何で?」
「 それが正しいと思っていたからです。恨みとか何とかじゃなく、神にも
人にも妖怪にも、優しいものなど一人も居ない。皆自分のためだけに
生きていると信じてきたからですよ。」
その声は既に穏やかで先程の行為の面影を留めてはいなかった。
それにしても、どうやったらそこまで悲惨な結論を出せるのだろうか、と
捲簾は訝った。
「 お前って、そうじゃないことを教えてくれる肉親とか居なかったのか?」
「 ボクが一族最後の生き残りです。遠縁に引き取られて育ちましたが。」
「 そこでいじめられた ・・・ とか?」
「 余計なものを引き取った訳ですから待遇は良くなかったですが、周囲
への体裁もあってそれほどではありませんでした。」
「 だのに?」
天蓬は溜息を吐いて、空を見上げた。
「 過去への拘りなんかじゃないんです。現在のボクが信じ、縋っている
概念に、このところ貴方が矢鱈に攻撃を仕掛けているんです。
一体何の権利があって、他人の人生に貴方はそういうチョッカイを出す
んだか ・・・ ?」
しかし、それは勝気を通してきた天蓬の初めて見せる弱音でもあった。
なにしろこの男ときたら、これまで捲簾に対して煩そうにしたことはあっても、
困っている様子すら見せずに来た。
それが今、貴方が矢鱈に攻撃を仕掛けているんです、と認め、それを非難
してもいる。天蓬には考えられないほどの感情の吐露である。
ここにきて、ようやっと捲簾が天蓬から偽物の笑顔を引き剥がしたとも
言える。
天蓬は笑わずに話すようになっていた。
これまで誰にも見せずにきた寂しそうな横顔を見せて、暫くの間夜空を
眺めていた天蓬であったが、促したりせずに気長に待っていると、やがて
自分からもう一度話し出した。

「 ボクねえ、結構遅くまで、自分が知恵遅れだと信じていたんです。」
「 はぁ〜?!」
捲簾はまた自分の声が裏返ったのに気付いて、今日は2度目だと思った。
「 お前が知恵遅れだと!?」
「 他人の頭の中は見えませんからね。100人に出合って100回遅れて
いると言われたら、では、自分の認識は人より大きく劣っていて、自分
以外は自分とは桁違いに物事を深く認識出来ているのか?と思うじゃない
ですか。」
「 思わねえだろ、普通?」
そう合いの手を入れた捲簾に、取り戻した微笑みを一つ送って、天蓬は
先を続けた。
「 誰も正常だと言ってくれなくても?問い掛ける度、誰からも 『 お前の
知能が低過ぎて説明もしてやれん 』 という答えをぶつけられても?それ
が生まれてからそれまでに得ていた他己からの反応の全てであっても、
貴方なら、自分の認識が正常だと信じ続けられましたか?」
捲簾は天蓬の顔を覗き込んだ。
少し吐き出した所為か、表情が嘗て見たことも無いまでに穏やかになって
いる。
「 しかし、そんな ・・・。そりゃ全員で口裏を合わせれば出来るだろうが、
そんなことをしたら、その子は将来も何も失ってしまうだろ?
正常な子供を周りの画策だけで異常と思い込ませて、全てを奪って潰す
ってことじゃないか!」
「 そんなことが何でも無いくらいに生き物って残酷なんですよ。そして
知性ある生物には、そうやって比較すべき他人を排除しても良いほどに
自分の子が可愛い。つまり、引いては自分の名誉が愛しい訳です。
ま、その子に近しいものがそうやっているのを知れば、本来利害関係の
無い筈の第三者までが、面白がって参加してしまいますけどね。
人一人潰すのに必要な理由なんて、案外 『 面白半分 』 だけでも事足り
てしまうんですよねぇ ・・・。」
そんな感想を付け加えて、天蓬は細い指を目の前の菊に伸ばした。
未だ蕾の一輪の花を千切り、手の中で揉んでくしゃくしゃに擦り潰す ・・・
その菊の残骸をパラパラと落としながら、黙ってそれを眺めている。
「 どうやって気付いた。何時自分が正常だと?」
「 観音菩薩に遠縁の家から連れ出され、年上の金蝉童子の学問の相手
を命ぜられた時に、2人から教わりました。」
「 金蝉童子 ・・・。」
「 無愛想で友人すら作らぬ男でしたが、嘘は吐かない。ある意味純粋な
人でした。年下のボクから文句も言わずに学問を習って ・・・。」
「 じゃぁ何故、その金蝉とやらと友情を育むとかしなかった?」
「 友人ですよ?今でも。」
「 だのにまだ、人を信じないのか。」
「 金蝉自身も余り人付き合いしませんからね。そのうち、観音のツテで
軍部入りしたボクの方がそれなりの人脈を得てしまって ・・・ ただ、本当に
誰かを頼るということにはなりませんでした。」
「 活躍の場はあったんだろうに。」
「 容貌に惚れ込んで ・・・ というお引き回しと共にね。」
「 長じてのちは、そちらに悩まされたって訳か ・・・ 。」
「 観音と金蝉の名前が効いて、それ以上の大事にはなりませんでしたが
やはり、心とは醜いものだと再認識しました。」
今や天蓬は何時もの微笑みの代わりに、整った容貌に陰鬱な表情を浮か
べている。
一渡り夜風が吹き抜け、天蓬の長い髪を乱した。
横から眺めている捲簾には、乱された髪越しに横顔が煙って見える。
「 それにねぇ ・・・。」 髪の毛を振り払うようにして天蓬が振り向いた。
「 一旦口に出した言葉は成就されないと気が済まないものなのですよ。」
「 それはどういう意味だ。」
「 当初出鱈目であったにせよ、自分が一旦知恵遅れと決め付けた者が
知恵遅れに相応しく無い地位に着くのは片腹痛いという意味ですかね。
戯言を弄すれば現実の方を己の弄した戯言に擦り合わせたいという希望
が生じるということです。」
ここまで分かって聞いてくれたか、とでもいうように相手を見詰める。
その後、一呼吸置いてゆっくりと放たれた言葉は、
「 つまり、ボクには常に失脚を望む強い要望があるんです。」
であった。
それこそ惨い言い草だと思う台詞をあっさりと口にしやがる、捲簾はそう
思いながら立ち上がり、まだ腰を下ろしたままの天蓬の片手を取ると、
短刀を握らせた。
「 返す。それと、何時でも殺してくれて良いぞ。気に入らなくなったらな。」
天蓬が怪訝な顔をして捲簾を見上げた。
「 先程と同じだ。俺はこの先もお前が俺を不快だと感じた時に無条件で
お前に殺されてやると誓う。 ・・・ そういう条件でなら、俺を信頼できるか?」
しかし、天蓬はそれでも首を縦には振らなかった。
「 要するに捲簾。そういう言い方を含めて、ボクはありとあらゆる方便を
聞かされて来たということです。」
「 俺のを特別と感じる理由も無いってか?」
天蓬はきっぱりと頷いた。
捲簾もその返事を認めるとでもいうように頷き返した。
「 いいさ、それならそうで。だが、俺に何と言ってもいいから、もう少し自分
には甘く当たれ。俺如きが出て来たからといって納得して死ぬな。」
天蓬は答えずただ俯いてしまった。
独りで考える時間も必要だろうと、捲簾はそのまま天蓬をそこに残して
自分の官舎に帰っていった。





翌朝 ・・・
早朝の営庭における調練で顔を合わせた天蓬と捲簾が、真剣同士で
むきになって練習試合をしている姿を認めて、部下達は息を呑んだ。
捲簾の攻撃は何時に無く激しかったが、天蓬の方にもその上達振りに
多少の愛想をしてやろうという気が欠片も見られない。
全ての攻撃を受け流した後で、僅かに見せた隙を突いて捲簾の長剣を
弾き飛ばすと、自身の剣を頚動脈に押し付けるという底意地の悪い寸止
を決めた挙句、息が上がって動けずにいる捲簾を残して、さっさと自室に
引き上げていってしまった。
「 一体元帥に何をなさったんです?」
永繕が冷たいお絞りを捲簾に差し出しながら尋ねた。
「 なんも ・・・。」 とお絞りを広げながら捲簾は答える。
「 さてと ・・・ どうせあのままで座学講義を打つ気でいるだろうから、行って
風呂に入れてやらねぇとな。」
「 そのお身体ででしょうか?」
「 他の奴にはさせないんだろう?」
捲簾は笑った。
「 はぁ ・・・ いくら側近でもそこまでは言えません。」
「 俺が行くしかねえじゃん?」

「 物好きな人ですねぇ。」
天蓬が後ろで呆れながら溜息を吐いているのをものともせず、捲簾は
バスタブに湯を張って入浴剤を入れている。
用意が出来ると棚から洗ったバスタオルとローブを出してソファに引っ掛け
「 ほれ、早く入って!」 と促した。
「 何でです?」
恨みがましく天蓬がブツブツ言う。
「 調練の後は座学講義の前に風呂に決まってるだろ?昔から。何なら
脱がせてやろうか?」
「 結構です。貴方、襲いたいんですか?」 と口を尖らせれば、
「 お前が人を信じる気になったら、そのうち襲ってやるから。それまで
お預けだ。」 と妙な言い方をされてしまった。
きっとなった天蓬は、バスルームに入らず、そのまま捲簾の前で洋服を
脱ぎ始めた。
シャツを脱ぐと薄い肩から、細い腰周りまでが露わになる。
手や顔から推測していた以上に白く透き通るような肌で、肌理の細かさ
は天宮の女官たち以上だ。
あるだろうと踏んでいたゴツゴツした骨の浮き出た部分は見当たらず、
思ったほどには細く感じない。
ただ、よく考えれば骨組み自体が細い設計だとでも言うところか。
感心して見ていると、ボトムにも手を掛けた天蓬が一気に全てを脱ぎ捨て
てしまった。
ぺこんと凹み気味の腹から形良く細長い足がすらりと真っ直ぐに伸びて、
何とも優雅な輪郭を形作っている。
女とは異質でありながら、並みの男とも大きく違った独特の美質があった。
流石、噂に違 (たが) えず美しいものだ、と捲簾は息を呑んだ。
しかし ・・・ と捲簾は呟き、「 そこまでやるんなら、先ず眼鏡を外せよ。」
と眼鏡に手を伸ばす。
「 やめて下さい。」
天蓬がぴしゃりと言った。有無を言わせぬ迫力だけはその姿とは裏腹に、
軍人一筋で生きてきた男のそれである。
「 これを取ったら、バスタブと床の区別も付きません。」
「 お前、ホントに近眼だったのか?」
「 当たり前です。今まで何だと思って見ていたんです?」
「 虫除けかと思った。」
言いながら捲簾は結局眼鏡を取り上げ、急に視力を失くして足元がふら
つき出した天蓬の白い腕を掴んだ。
そのまま、バスルームまで天蓬を引き摺り込んで、嫌味に 「 熱気のする
方がバスタブだ。」 と付け加えるとドアを閉めた。

バスローブを羽織って風呂から出てきた天蓬に冷たいものを出し、洗浄
を済ませた眼鏡を返してやると、相手はこれ無しでは飲み物の位置すら
分からないとばかりにさっさと眼鏡を掛けた。
「 もう少し、それ無しの顔を見ていたかったけどな。」
捲簾がにやりと笑う。
「 さっきから上官侮辱の連続ですよ?」
「 部下の前で全裸になってみせる上官というのも珍しいが ・・・。」
皮肉を込めてぶつけた言葉に天蓬はただ、ふん!と息の音を返した。
「 ほら、次はこれ。ちゃんと飲んで。」
手を取って、飲み物の入ったコップを握らせる。
天蓬は口を付けずに、顔を上げて捲簾をまじまじと見た。
「 どうして、ここまでするんです?昨日の今日で、朝の調練でも酷い目に
遭ったんでしょうに。」
「 いいから飲んで水分補給しろ。この先もきっちり面倒見てやるから。」
「 だから何故 ・・・ ?」
「 お前が何にも信じてねぇから。
お前、何時でも死んで良いと思って軍人になったろ?」
見上げてみると、捲簾の目が珍しく真剣に問い掛けている。
「 はぁ ・・・ まぁそんなところです。」
捲簾はやっと正直になった天蓬の答えに頷くと、ゆっくり隣に腰掛けた。
「 刹那主義に徹するには幕僚に留まる訳にはゆかなかったということか。
最前線に出て白兵戦に参加する軍師など聞いたことも無いと思ったが。」
否定の返答は無かった。
天蓬は飲み物に口を付け、心地良く冷えた口当りに目を細めた。
「 戦闘の際にはどの位置にいても良い ・・・ それが西方軍に引き抜かれ
る際の敖潤閣下とボクの間で交わされた裏取引です。」
重く薄暗い精神構造を暴露する内容を、飲み物を飲みながら淡々と語る
天蓬は、精々相手の持ち出した世間話にちょっとした情報を付け加えて
やっている程度の気持ちでいるのだろう、と捲簾は思った。
しかし、今の天蓬は少なくともあれほど自分が聞きたがっていた本音を
語ってくれてはいるようだ。
空になったコップに2杯目のジュースを注いでやると、丁度欲しかったの
だろう、嬉しそうにして少し表情を緩ませたその機を捉えて、捲簾は天蓬
の耳元にぐっと顔を近付けてゆっくりと言葉をかけた。
「 こんな商売だから、我々は他の天界人と違って何時かは死ぬんだろう。
けれど、人くらい信じて楽しい思い出もちっとは残して死んでかねぇと、
生まれた意味もねえだろ?」
天蓬には答えようがなかった。
ただ、飲みかけて止めたコップを見詰めて黙っている。
昨夜あんな会話をして、自分にただ死ぬなと告げて立ち去った後、話の
内容が内容だったから、きっと根が生真面目な捲簾はあれからも色々と
考えてくれていたのに違いない、と天蓬は思った。
恐らく今口にしているのが、彼なりの結論なのだろう。
それとて信じてよいものやらどうやら天蓬には知りようが無かったのだが。
「 急に何とかしろとか、愛想良くなれとは言わん。ま、お前は元から妙に
愛想を振り撒いてたし、それが嘘だと分かっていても傍に居たいって慕って
くれる部下も多く持っていたけれどな。
でも、なんも変えようとしなくていいから、ただこれから起きることをも少し
素直に受け容れろよ。」
意外に緩やかな要求に天蓬は却って戸惑った。
「 変えなくてもいい ・・・ んですか?本当に?」
「 当面はな。それがどんなやり方だろうと、長くお前を護り抜いてきた方法
だろうし、急に捨てることも無いだろ。」
「 そうですか。」
天蓬は見たことも無いほど大人しく呟いた。





2週間後、兵営内の自室に戻ろうとした捲簾は満面に喜色を浮かべた
永繕とその仲間に呼び止められた。
「 大将、今さっき届いた朗報です。元帥が上層部に願い出ていた人事
移動の申請が通って、円雷たち3人が西方軍を離れることになりました。」
「 ほう ・・・ ?」
3人とは元々天蓬に反感を持っていた3名の士官のことである。
天蓬と仲違いをしたと言うよりは、それぞれが思惑の有る誰かの手先と
して喉元に突き付けられた節があり、これまでも時々西方軍の作戦を霍乱
しては足を引っ張ってきた連中だった。
それでも、天蓬の 「 それもこれもあって当たり前の軍隊だから 」 という
摩訶不思議な方針で、特に咎めることも無く好き放題にさせて来た。
天蓬に対する信頼が絶大な西方軍は文句も言わずに従ってきたが、
西方軍の誰もが内心腹に据えかねる存在であった。
それを、急に天蓬が一掃すると言い出し、自ら上層に願い出て人事異動を
押し通したというのである。
部下達が目を輝かせて3人の追放先の報告をしているところへ、当の
天蓬が通りかかった。
廊下に群れているのが捲簾と永繕たちであると分かると、ちょっと会釈を
送ってそのまま通り過ぎようとする。
その手を強引に引っ張って、捲簾は話の輪に天蓬を引き込んだ。
「 ついに掃除をしたんだって?」
「 まぁ ・・・ 」 と天蓬は答えた。
「 貴方には何時も部屋の掃除をして貰っていますからね。
人事のことくらいボクが快適にしておこうかと ・・・。」
「 でも、本人からの抵抗が無くて良かったじゃないか。」
捲簾が言うと他の面々からも、「 我々も、たとえ貴方が決心されたとしても、
かなりの抵抗が有るものと思っておりました。」 という声が上がった。
「 ああ ・・・ それね。弾丸一個ですね。」
天蓬が事も無げに言う。
「 弾丸?」
「 以前に、貫通し岩にめり込んでいた弾を持ち帰っていたものですから。
特徴のある弾でしてね。敖潤閣下には、抵抗が有った時には、ボクが
弾を回収して持っていると明かしてくれと、伝言をお願いしておきました。」
捲簾と永繕が顔を見合わせてニヤリと笑った。
他の者たちも、まぁ事情は察しているといった顔をしている。
「 よっしゃぁ〜!」
捲簾が敖潤に目撃されたらそれこそ本気で射殺されそうな馴れ馴れしさで
天蓬の肩に手を回した。
「 良くやった!大体、何で今まで野放しにしておいた?」
「 それぞれ思惑あって使わされた人たちでしたから、黙って置いておけば
そのうち偽情報を掴ませたりとか、出番もあるのじゃないかと思いまして。」
「 ふうん?」 と捲簾は改めて知ったその理由に鼻を鳴らした。
「 じゃあ、何で今更叩き出そうという気になった。」
「 そんな姑息な手段を使わなくとも、捲簾大将以下うちの優秀な兵士達が
どんな場合にもボクを助けてくれるような気がしてきました。」
それをお世辞無しで言っているとは信じ難い台詞ではあったが、たとえ
お世辞であっても、そのように解説してみせてくれる気持ちが嬉しい。
「 へえ?えらく素直になったもんだ。」
言いながら捲簾は天蓬の髪と項の間に指を入れた。
「 ついでに髪を切って、もっと皆に顔を見せてやらないか?」
天蓬はその手をぱちんと叩いて、肩に掛けられていた手も払い除ける。
「 何のついでなんです?」
極上の微笑みを投げ、そのままその場を離れ、遠ざかって行ってしまった。
それも 「 嘘笑い 」 だと言えばそうだが、少なくとも以前のように痛々しい
気はせず、楽しげな様子であった。
「 変わられましたね。」 と誰からとも無く声が上がった。
「 以前ならさっと銃を向けて、『 射殺しますよ!』 でしたが。」
「 今でもそうだよ。」 と捲簾。
「 俺様以外にはな。」
「 まさか、大将 ・・・。」
永繕が露骨に顔を顰める。
「 何もしてないさ。ただ ・・・ 言ってやっただけだ。何時でも撃って良いと。
今もその約束のままだ。」
「 何故です、そんなこと。」
「 嫌な思い出でも有るのか、しょっちゅう張り詰めてやがったからな。
こんな中で暮らして、それじゃ可哀想だと思って。」
到底納得できる説明をしているとも思えなかったが、少なくともその場に
居たものは一様に 「 ほう ・・・」 と納得してしまった。
以前の痛々しいほどに警戒し張り詰めていた天蓬を知っている側近ばかり
であったからだろう。





頭の後ろで組んだ手を枕に、川辺に寝そべった姿で天蓬は昼休みを過
ごしていた。
最近時々こうして戸外で休憩時間を過ごすようになった。
外に出始めた天蓬の噂はある趣味の持ち手には有名な話になったらしく、
暫くの間は寝ているといきなり現れて押さえ付けようとする者も出たりした
が、何度か巴投げを食らわせたり、短刀で脅しつけたりしているうちに、
誰も来なくなっていた。
今でも以前と全く変わらず天蓬は人の気配に敏感で、触られると無意識
にでも反撃を加える癖を残したままである。
ただ、捲簾の気配にだけはあまり反応することが無くなって、直ぐ近くに
まで来た捲簾の笑い声に目を覚ますこともしばしばだ。
馬鹿にされているようにも感じないではないが、軍務に付いた途端、捲簾
の態度は急にガラリと変わって自分を立ててくれる。
場所が場所だけにたまに下卑た言い方もするが、如何なる場合においても
それは天蓬の名誉を傷付ける種類のものではなかった。

天蓬の周りの空気が急速に和らいで、穏やかな日々が通り過ぎてゆく。
過去の経験からそんなものが永遠で有り得ない事は百も承知している。
それでも、束の間の穏やかな時間を楽しむ余裕が出来始めたことを
天蓬は感じていた。
きっと、何時の日かこの付けが回ってくるには違いない。
無論それは、捲簾が見返りを求めて来るのどうのという心配などではない。
これまで通って来た捻じ曲がり、荒み、時には血生臭くさえあった過去が、
天蓬に鳴らしている警鐘のことである。
運命的に ・・・ だろうか、自分には無償で何かが手に入るということが無い。
最初から持ち合わせた 「 分 」 が余程無いのか、何かを得ようとする度、
大きな代償を支払わされる羽目になった。
時にはそれが、己が手を血に染めるという天界人にあるまじき行為で
あったことさえ ・・・。
だからこそ、出来れば何も望むまい、夢も見るまいと、周囲が普通に望む
ものを寧ろ遠ざけるようにして生きて来た。
だが ・・・。
今の穏やかな時間を得る為なら、その支払いにも応じようとも既に決心
していた。
孤独に生まれ付き、凍りついた時間を過ごす運命だった自分が、一時
なりとも安らいでこうして光の下に居る。
支払いは大きなものになるだろうと天蓬は思った。
それでも良い ―― そう答えるもう一人の自分の声を聞きながら、襲って
きた眠気に身を任せる。
そのうち捲簾が起こしに来るだろう ・・・。

やがて、感覚が戻ってき始め、案の定、捲簾の声がする。
「 最近、大胆に人前でも寝るのな!」
流石に下卑た揶揄を連想させるそんな言葉には、頭より先に身体が反応
し、がばりと半身を起こすと無意識に銃を向けてしまった。
捲簾は首を振ると、寝起きではっきりしていない天蓬を脅さない程度に
ゆっくりと銃を持った手を握って、自分のこめかみに導びくとその位置に
固定させ、今度はもう一方の手をとって、その手にカップを持たせた。
水筒を取り出し、そのカップにコーヒーを注ぐ。
「 それが安心の元ならそうしてていいから、コーヒーを飲め。寝覚めの
水分補給だ。」
天蓬は短い間無言で捲簾を眺めていたが、やがて銃を仕舞い、カップを
両手に持ち直した。
「 いいのか?それで。」
捲簾が問うと、
「 怯えもしない者に銃を向けても無駄でしょうから、もう止めます。
今度そういう必要が出来た時には、警告無しで躊躇せず射殺します。」
顔色も変えずそう言ってのけた。
「 うっわ、可愛くねえ言い草!」
しかし捲簾の抗議を一切無視して、天蓬は澄ましてコーヒーを口に運んだ。
苦さに思わず口元が歪む。
「 ミルクが入っていませんが。」
「 当たり前。訓練開始10分前だ。つべこべ言わずに飲んで目を覚ませ。」
天蓬は諦めて言われるままにコーヒーを飲んだ。
「 御馳走様 ・・・。」
天蓬はこれまた最近になって 「 本物臭くなった 」 と言われ出した笑顔を
向けるとカップを置いて、午後の勤務に向かうため立ち上がり、調練場に
向かって歩き始めた。

眠る前に最後に考えていた内容がふと天蓬の頭を過 (よ) ぎる。
この代償は大きいだろう ・・・ と。




















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   ―― 菊 花 ――

   2007/09/06
   2007/09/30 書き直し
   天蓬心理分析 ( 独自解釈 ) 実験中
   written by Nachan

   無断転載・引用は固くお断りします。

   ブログへのリンク
   http://akira1.blog.shinobi.jp/

   素材提供:Heaven's Garden
   http://heaven.vis.ne.jp/










NOTE :

一応、外伝2巻の天蓬・捲簾の出合いから、命懸けの親友に
なるまでの過程を推測してみたものです。
豪放磊落で分かり易い性格の捲簾に比して、大胆と繊細の
混在する矛盾した天蓬の性格描写は、作者の間違いだとしか
思えないほど ・・・。
それが、大したエピソードも無いまま、いきなり大親友に ・・・?!
その部分の理由を適当にでっち上げたものです。

にしても ・・・。
フィクションとなると、こうまで悲惨な下手糞になってしまう自分
ってのも、好い加減信じられません!!
・・・ いや、理由は分かっています。
心理描写以外の状況を客観視したがるばかりで、情緒的に
捉えたり、抽象表現するのが嫌いだからでしょうね。
要するに、
「 燃え上がりそうな熱気がじりじりと神経までをも焼き尽くそうと
する。砂漠が彼を責め苛んでいた。」
なんてぇのが苦手で、
「 彼は砂漠にいた。過ぎた暑さに苦しんでいた。」
と書くから、小説に見えないんだって、そりゃ!(ノ_-;)ハア…

あと、軍隊組織が原作を踏襲すればするほど、滅茶苦茶に
なるんですよね、これ。
女性向けの漫画だからなのか、そんな組織系統、あってたまるか!
って水準です。
どうしても我慢できない部分を多少変えてはいますが、それでも
やっぱ、こんな軍隊ある訳ないって!?